

昨日日本シベリウス協会主催のシベリウス生誕150年シリーズ、シベリウス作曲「クッレルヴォ」を聴いてきた。会場は錦糸町にあるすみだトリフォニーホールの大ホール。
オーケストラ90余名、男声合唱団90余名、メゾソプラノとテノールの独唱、指揮者と190名余りの人数での演奏であった。
久しぶりに大規模な管弦楽曲を生で聴いた。しかもこれだけの大人数の男声合唱つきの演奏は迫力は満点であった。そしてこの曲、私はこれまで聴いたことはない。
作品番号7というこの曲はシベリウスが27歳の時1892年に初演されている。カレワラという「民族叙事詩」が1835年に編纂され、当時ロシアからの独立をめざしナショナリズムが高揚した時の作品である。シベリウスという作曲家の出発点でもある。しかしフィンランディアやトゥオネラの白鳥を作曲した1899年以降は、後期ロマン派、フランス印象派風の作風に変化していく。
シベリウスが世界性を獲得していくのは、1899年頃、交響曲第1番を作り上げる頃からと私は感じている。
この曲も悲劇的で劇的な叙事詩に合わせて、オーケストラの高揚は暴力的ともいえる不協和音の連続で占められる。
私はどちらかというとクッレルヴォやフィンランディアなどの作品よりも、この変化した作風に惹かれてシベリウスファンになっている。
しかしナショナリズムの渦の中で作られた初期の作品にも当然にも後期のシベリウスさらしさは随所にみられる。それが具体的にどのような表現、楽器の使い方、和音の進行、メロディーの特徴なのかは指摘できるほどの力が無いのは残念であるが、聴いているとシベリウスを聴いているのだな、と確か納得する。激しいリズムや不協和音、メロディーの作り方などにそれを感じる。
要所要所の行進曲風の場面ではチェロやコントラバスによるリズムの刻み方も印象的である。それはティンパニーに移行したりするが、魅力的な表情をしている。また混沌の中からふと繊細で美しいメロディーラインが浮かび上がってくるところなどに感じることが出来る。
叙事詩の進行に合わせた曲で、85分という長時間の曲である。合唱と独唱は第三楽章と終楽章の第五楽章に登場する。この曲の山場である。しかし第二楽章、第四楽章も単独の管弦楽曲としてもすぐれている。特に私は第二楽章、それも終盤が気に入った。
会場では、同じ曲を渡邉暁雄指揮、東京都交響楽団の1978年のCDが格安で販売されていた。こちらも今度じっくり聴いてみようと思う。



