Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日の講座

2015年03月18日 23時09分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の20℃を越えた横浜の暖かさは異様だと感じた。昨晩の予報では本日の方が少し気温は低くなるとのことであったが、実際は本日は昨日よりも高くなり20.9℃となったそうだ。4月下旬の暖かさと言っていた。
 本日は彼岸の入りということだが、体の感覚は彼岸をとっくに過ぎたような陽気に感じた。明日は雨の予報で最高気温は20℃を下回りそうだが、湿度は90%前後で蒸し暑く感じるようだ。

 明日は「比べて楽しむ美術鑑賞」(講師:中村宏美氏)の最終回の講座と、古代史セミナーの2回目「古代の日本貨幣史」(講師:国立歴史民俗博物館准教授三上喜孝氏)の講座。ともに2時間の講義である。

 本日の疲れが出て、居眠りをしないように、ということで本日は早目に就寝予定。

今日の仕事はつらかった

2015年03月18日 21時53分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 岡林信康の山谷ブルースは「あとは焼酎をあおるだけ」と続く。学生時代アルバイトで土方をやったりあるいは建材などの荷揚げ・荷卸しという力仕事にありついて、終わると夕方立ち飲みで焼酎と焼き鳥を口にしながら、ブツブツと一人で口ずさんでいた歌である。ほとんど仙台でのアルバイトだったので、山谷を訪れることはなかった。しかしたまに横浜に帰省しているときにありついたアルパイトでは、一緒に仕事をした年上の人によく桜木町の駅の傍の立ち飲み屋に連れられて行った。
 2回も同じところに連れられて行くと、ひとりでも行くようになった。そのような店が今も桜木町駅の傍の大きなビルの地下にある。横浜市に採用されてから、組合の事務所が桜木町にあったので会議があった時は帰りに必ずそこに寄った。学生時代に通ったことのある飲み屋に勤めてからも通うことになるとは夢にも思わなかった。当時は横浜市の職員も現業の人を中心にこのような店に多く出入りしていた。
 今ではその当時の組合事務所への「出入り禁止」という無期限のふざけた「処分」を受けて以降、別の組合の会館を寿町に建設したこともあり、桜木町のそこの店に行くことも無くなってしまった。

 さて本日の事務所当番は、力仕事が続いてさすがに夕方19時ころにはくたびれた。帰りにコンビニでビールとウーロンハイのレギュラー缶を1缶ずつ購入して、それを歩きながら飲んだ。30分ほど歩いて賑やかな繁華街に出てから電車に乗って帰宅したが、歩いている途中でふとこの歌を思い出した。
 学生時代は、日雇い仕事で生計をたてなければならない状態ではなかったが、自分の進路をどのように定めるか暗中模索の中で、このような仕事をこなしながら何かをつかもうと必死だった。いろいろ紆余曲折があってたまたま横浜市に採用されたが、そうでなかったら自分はどんな職業についていたのであろうか。不思議なものである。

 労働運動に携わってみたいという気持ちは、本気ではなかったが頭の片隅にはあった。たまたま1973年、74年のころ春闘はなやかな頃にテレビで東京都だったかどこかの自治体の現業職場の職場集会の模様が映し出されていた、そしてそこの不揃いで頼りない「団結ガンバロー」の締め括りを見て、「情けない」と感じた。当時華やかな公労協などの整然としたデモや集会からは想像もできないものであった。
 理科系を卒業したが、もう2度と数式を見たくなかったし、大学で一応勉強したことを一生続けなくてはいけない理由もないし、そんなことはしたくなかった。他にできる仕事と云っても思い浮かばなかった。メシの食うためなら何でもしなくてはいけないとだけは思っていた。
 しかも残念ながら現業職場は大卒では採用しないようなので、理科系の私ながら事務職で受験してみることにした。そのかわり行政法や憲法や労働法について半年必死で勉強した。どういうわけか受験したら採用されてしまった。試験官も人を見る眼が無かったのだろうと思う。
 採用された1975年以来社会運動としての労働運動ではなく、あくまでも労働組合運動に40年近く関わり、この歳になってしまった。