Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

不思議な体験

2015年03月26日 07時01分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 学生の頃仙台に5年住んでいた。今から思えばわずか5年だが、当時の年齢の者には10年、20年住んだような気分でいた。それだけ濃密な時間を過ごしたのだと思う。
 私は仙台の街そのものには大変お世話になったと感謝している。下宿先やアパートの周囲の皆さん、生協の食堂で働いていた方、アルバイト先で知り合った方達、街中の喫茶店や飲み屋の常連と店員、近くの惣菜屋でおまけをよく入れてくれた親爺さん、ストーブ用の灯油をいつもアパートの2階まで運んでくれていた方等々‥数え上げればきりがない。
 飯屋、○○ラーメン、△△ラーメン、☆☆会館、★★書店、西公園のプラネタリウム、ジャズ・ビートルズ・クラシックそれぞれの専門の喫茶店‥‥みんな無くなってしまった。○○ラーメンは復活したが残念ながら私の覚えている味ではない。昔の姿で現在も残っているのは壱弐参横丁・文化横丁くらいだろうか。

 ある3年目の冬の日の夜、デモの帰りに居酒屋で飲み過ぎてフラフラ歩いていたが、酔いが回って国分町のはずれの方で酒瓶の入った木箱に腰かけて震えていた。紙袋にはデモで被ったヘルメットとタオルを入れていて抱えており、デモ帰りの学生と一見してわかる格好だった。
 その木箱を置いてあるバーのバーテンが寒いだろうからと店の中に招き入れてくれて、カウンターに座らせてくれた。金のことは心配するな、と云われた。そしてごくうすいウィスキーのお湯割りを作ってくれた。客はいなかったと記憶している。30分ほど居て、酔いが落ち着き、しかも体が温まったのでお礼をいって、なけなしの1000円札を出そうとしたが断られた。
 今晩は店が暇だからとか何とか云いながら、24時まで取り留めもない話をした。結局お金を受け取ってもらえず店を出た。当時24時というのは仙台ではもう街中はネオンも消えて真っ暗である。タクシーすら滅多に走っていない。もとより歩いて帰るつもりだったので気にはしなかったが、店を出て1時間ほど歩いて帰ったことがある。

 帰宅してから思い出すと、カウンターに4名、4人用のボックス席が二つの小さなバーであった。平屋の間口の小さな木造の店で「紫」という看板が出ていた。当時はカラオケなどというものもないし、テレビも置いてはいなかった。確かに客もいなかったようだ。

 いつでも遊びに来いというので、その後夏休み前までの半年で5~6回ほどその店を訪ねた。お礼がてら少しは売り上げに貢献したかった。時間は20時から21時位の時間帯だったと思う。学生が訪れるには遅すぎる時間でもあった。いつも水割りを1杯頼んだ。つまみはピーナッツやチョコレート、チーズ、ポテトチップ程度の乾きものと野菜スティック、浅漬け程度しか置いていなかった。私にはそのつまみを注文する金銭的なゆとりもなかった。しかもメニューも値段表もなかった。
 私が注文したものを飲み終わると、バーテンは他の客の入れているボトルからウィスキーをくすねて2杯ほど水割りを飲ませてくれた。それで300円くらいだったと思う。店に客はあまり入っておらず、経営状態はよくはなかったと思う。ときどき来る客もウィスキーを2~3杯飲んでツマミを1品注文して、大概は金は払わずツケで帰っていった。カウンターで飲むひとり客も私に声を掛けるでもなく、またバーテンと長々と話し込むこともなかった。ボックスに座る客も30分から1時間で出ていく客ばかりだった。

 私がいつも払ったのが300円と云っても当時は学食の定食が一番高いもので150円だったから学生には1日分の食費に近い大金でもある。肉体労働で一日1500円なら高い方であった。ホステスはおらず、男の店員がときどき1名いた。どうも他の大学の学生アルバイトのような感じもしたが、言葉を交わすことはなかった。
 絨毯の敷き詰めてあるボックス席に客が来ていても一向に気にしないで私に語り掛けてくれた。特に処世訓を垂れるわけでもなく、サントリーとニッカの違いだとか、カクテルの作り方のコツだとか、ボトルのウィスキーの入れ替えの仕方だとか、ボトルの口が空いていなかったかのようなキャップの細工の仕方だとか、後ろのボックスにいる3人はやくざだとか教えてくれた。そんな風にして何となくかわいがってくれた。

 世間知らずの私にダルマといってもバーで出すダルマでもほとんどが最初から中身は角だよ、あるいはダルマをボトルキープしているうちに中身は角にすり替わっているものだよ、と教えてくれた。ダルマだ、角だ、ホワイトだといったってわかる人はまずいないとのことであった。
 ダルマの中身を角に変えれば儲かるかもしれないが、しかし店が購入した時にダルマら入っていたウィスキーはどこにいってしまうのか、未だに理解できない。ダルマの中身をどこかでリザーブとして売る場面があれば儲けはあるはずなのだが、そんな高級なウィスキーは扱っていなかったようだ。
 あるいはいいウィスキーは別の容器に入れて自分で飲んでしまっていたのかもしれない。それならばそのくすねる量はたいしたことにはならないはずである。やはりよくわからない。
 すらっとして髪が黒々としていた。歳は60歳になっていなかったように記憶している。政治の話をするわけでもなかったし、世相談義をするわけでもなかった。私もそれが嬉しかった。ただし大学の悪口は言っていた。大学教授というのは礼儀知らずだというのだが、一般論として断定してしまうのにはちょっとついていけなかった。

 そうして5~6回ほど通ってそのままいかなくなってしまった。学生が通うようなところではないと思っていたので足が遠のいた。雇われマスターと思しき歳取ったあのバーテンが、どうして私を招き入れて、しかもただ酒を飲ませてくれたのか、未だに理解できない。
 数年前に国分町を歩いてその店を探したが、木造の建物そのものが消えてなくなっていた。小さなビルが建って、1階から3階にかけてバーが数軒入っていた。それでも決してきれいな一角ではなかった。

 昨晩寝る前に先の投稿にいただいたコメントを考えているうちにふとこんなことを思い出した。