川崎の生田にある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪れた。広大な明治大学生田校舎の敷地の一角にあるこの資料館と敷地内にある弥心(やごころ)神社、動物慰霊碑、「弾薬庫」跡、当時の消火栓などを見学した。ここの広大な生田キャンパスの敷地は1945年敗戦までは陸軍兵器行政本部所管の「第9陸軍軍事技術研究所」(登戸研究所)の跡地であったのを1950年に明治大学が購入して現在の形にしたものであった。
この「研究所」は防諜・諜報・謀略・宣伝を意味する「秘密戦」のための兵器・資材の研究・開発をする、いわゆる戦争の裏面を支える部門であった。存在自体が秘密とされてきた部門である。
始めは1937(S12)11月に「陸軍科学研究所登戸実験場」として発足した。初期は電波兵器、レーダーなどの無線機器、宣伝機器の開発をしていたが、2年後には毒物・薬物・細菌兵器・スパイ用品の開発、偽札・偽造パスポート製造などがおこなわれるようになった。
1942年以降は風船爆弾も製造し、最盛期には11万坪、100棟に1000名を超す所員が従事していたという。研究所機能は1945年本土決戦ということで長野県伊那地方に分散疎開しそこで敗戦を迎えるが、地元雇用の職員はその時点で解雇されたようである。
将校・技師などの幹部職員は云うに及ばす、地元雇用の職員にも従事した業務には硬く口止めがされていて、その呪縛を解く努力が地元研究者の間で粘り強く行われ、ようやく戦後40数年も立ってから、研究所の研究内容、業務内容が少しずつ明らかになったという。この呪縛が多くの人々の人生を規定してきた。戦争というものの癒すことの極めて困難な傷跡がここにも存在していた。
今回は資料館では「紙と戦争」という企画展を催していて、風船爆弾と偽札製造についての展示が多かった。
風船爆弾は9000個が飛ばされたようで、確認されたもので361個の爆弾がアメリカ本土、カナダ、メキシコに着弾している。私たちが中学生のころ、歴史の授業で「笑い話」の一環としてこの風船爆弾の話を教師がしていたが、当時陸軍が本気になってかつこれほど大規模に実行していたのは知らなかった。
メカニズムの開発、風船の素材の特注和紙の開発と調達、搭載爆弾の開発などが詳しく展示されている。
和紙の開発は今回ユネスコ無形文化遺産登録となった埼玉県小川町が行い、四国の和紙などを中心に全国から特注和紙が取り寄せられたという。和紙をこんにゃく糊で張り合わせ化学処理をして軽量で丈夫な気球をつくる工程では勤労動員などで女学生などが使われた。
高度5000mで太平洋を9000mも横断するメカニズムの詳細は今ひとつわからなかったが、二昼夜以上かけてバラストの投下を何回かしながら高度を維持し続けたらしい。気圧計を利用した高度維持装置を働かせたようだ。
搭載された爆弾は当初は牛疫ウィルスを利用した生物兵器を予定し、「アメリカ人の食生活に打撃」を狙ったらしいが、解説によると「アメリカの報復を恐れて陸軍中央の判断」で通常爆弾・焼夷弾に変更された
偽札製造は、日中戦争が長期化する中で中国経済の混乱をはかり、中国での軍による物資調達を容易くするために、中華民国国民政府が発行していた紙幣の偽札を大量にここの登戸研究所で作成し、中国国内に持ち込んでいた。国際法上きわめて問題となる国家による他国の模造紙幣の作成は極めて厳重な秘密扱いとされた。製紙・製版・印刷・インク調達などがここで行われた。
当時中国では日本の物資調達でインフレーションが極度に進み、結果としては偽札は全発行高の1パーセント未満に留まり、作戦としては失敗したという評価となる。しかし日本がもたらした極度のインフレーションが蒋介石政権の国内での信頼を失わせ、国民党政権の崩壊・台湾脱出へとつながる。
生物兵器では小麦の被害を与える細菌、稲を枯らせる細菌や稲の害虫の散布実験も行われた。風船爆弾に登載される予定であった牛疫ウィルスの開発も行われた。
毒物兵器では中国国内に持ち込んで青酸ニトリルを実際に使った人体実験が行われ、その時の模様を証言した手記も公表されている。
詳しくは添付のパンフレットを読んでいただきたいが、秘密とされたこの研究所の全容は残念ながら公式文書としては残されていない。
海軍の日吉台地下壕の記録と同じように、1945年の二ヶ月ほど前から廃棄・焼却・証拠隠滅が行われ、文書・資材・機材が失われた。ごく限られた文書が奇跡的に見つかったり、戦後40数年たってからの生存者の手記・証言が当時を復元するよすがとなっている。
和紙の技術、水のろ過器等々の技術は敗戦後も活かされているが、ほとんどは記憶とともに失われている。その失われたことの原因のひとつとして米軍による登戸研究所の研究成果の冷戦下の活用方針である。研究所の将校・技師等については極東軍事裁判(東京裁判)で情報提供と引き換えの免責が行われ、朝鮮戦争そしてベトナム戦争にまでその成果が活用されたと云われている。