Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日はここまで

2015年03月08日 20時55分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日に続いて本日も寒い日であった。午前中は昨日の登戸研究所と明大の資料館訪問の内容と感想を綴った。午後にずれ込んでしまい、「旧朝鮮北部の神社跡地を尋ねて」という報告会に遅れそうになってしまった。何とか間に合って14時から17時45分まで参加させてもらった。
 この報告会感想は本日中にはアップできそうもない。本日は資料をスキャナーで取り込むのが精一杯かもしれない。明日以降に掲載したいと思っている。



 この報告会と同じ時刻に同じ建物で、神奈川大学法学研究所主催で「神奈川の基地問題を考える-司法・自治体行政・住民運動の役割-」というワークショップが開催されていた。こちらは事前には知らなかったので、本日は資料だけをもらってきた。
 沖縄に次ぐ基地を抱える神奈川県ならではの課題である。私の住む団地の上を厚木基地由来の軍用機が昼間大きな音をたてて飛んで行く。退職後楽しみにしていた音楽を日理も聴いていると、爆音で中断されることがある。基地から遠く離れた横浜駅の傍でもこのありさまである。この騒音がいつの間にか当たり前になってしまうことは避けなければならないと思う。基地の撤去については神奈川県・横浜市共に自治体としても最重要課題である。


明治大学平和教育登戸研究所資料館見学の感想

2015年03月08日 19時39分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 戦争というものは、どんなに「小規模」で「限定的」という言葉を使おうが、国内の資源をフルに活用し、それを支えるには極めて多くの財力と人間の力をシステムとして使い、そして人間の心に深い傷を負わせる。一人の人間が戦場で戦うとするとそれに何千倍をはるかに超える人の労力と深い傷が存在して初めて可能になるのである。これは以前から当然のように云われていることである。このことは風化して忘れられてはいけないことである。
 風化、とても残念なことにとらえられる。だがしかし、「風化」には二種類ある。
 時間の経過とともに人々の記憶の名から堆積し、沈澱していくもの。自然過程でもある。しかしこの自然過程は決して忘却ではない。いつかふと記憶の表層に浮かび上がって、過去を思い出させる。昇華するとも表現される。辛いこと、嫌なこととしてだけでなく将来へ繋がる何ものとして存在する。それは伝承という形で、口から口へ、世代を超えて伝えられる可能性をおおいに秘めているのではないか。体験は目に見えない形でも人々の中に生きていくということは、信じていいのではないか。
 もうひとつは忘却あるいは免責として人為的に強制的に「醜いこと、嫌なこと、都合の悪かったこと」として「はなかったもの」にしてしまうものである。そしてそれが別の価値、為政者の恣意的な別の理念への飛躍のためのものである可能性がとても高い。
 イラクに派遣された1000名を超すの自衛隊員では実に28名の方が残念ながら現在時点で自ら命を絶っているという。これはとても大きな数字である。どのような経緯なのかは私の手元には資料が無いし公表もされていないようだが、これとても個人の琴として忘却されてはいけないことである。
 日吉台地下壕の時も、本土決戦に備えた特攻兵器として考えたというものがとても人間の思考から生まれたものとは信じられないものである。この陸軍の研究所の内容も人のしてのあり様からは許されるものではない。
 これらのことは忘却してはならないことである。人為的な忘却並びに免責は許されることではない。

 今の政府のあり様は私はとても容認できないと思っているが、同時にそのような姿勢は各種組織の中で今でも平然と行われている。
 昨年私がこのブログ(2014.8.26付)で記した東北大学もその典型であると思う。まずは魯迅記念展示室での展示内容に私は意義を挟んだ。
 周樹人=魯迅が医学の道を断念して文学の道に導いたいわゆる「幻燈事件」。「藤野先生」という魯迅が敬愛した実在で実名の藤野厳九郎博士との交流を描いた作品の中で「(映写された幻燈に)ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現れた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて銃殺される場面であった。取り囲んで見物している群衆も中国人であり、教室の中には、まだひとり、私もいた。」という有名な場面がある。吶喊自序では銃殺が日本軍に首を斬られる」という風に変容されている。
 幻灯があったことは確認できるが敢えて「この話には文芸作品としてのある種の創作が含まれていると思われるが‥」と記述する姿勢はいったい何なのだろう。当時中国人をおくれた民族として差別する日本国内の世論の中で周樹人=魯迅はどこかでこの種の体験をしたか、見聞きしたのであろうことは想像に難くない。
 仙台という地も、医学専門学校の構内も決してこのような風潮とは無縁ではなかったはずだ。せめて展示では、そのような風潮に当時の大学そのものが無自覚であったことに反省するなりの言質を私は求めたいと思う。そうでなければ留学生を受け入れる資格はないものと思う。
 都合の悪いことは「なかったことにする」姿勢はこれだけではない。東北大100年史の展示コーナーでは、1971年の学費闘争がこじれて、8割近い学生が期末試験をボイコットしたこと、75%が留年したこと、2年続けて卒業生が75%にとどまり、仙台の産業界だけでなく東北の全体に極めて大きな影響を与えた自体がまったく触れられていない。その前段の1969年の封鎖事件では学生から奪い取った旗を戦利品のように展示し、そしてこの事態はまったく無視をし、無かったことにしている。
 都合の悪いことをなかったことにする姿勢は、今の政府のとんでもない姿勢とまったく同じである。

 わたしは日吉台の地下壕と登戸研究所が敗戦日の日にそれまでの記録をすべて焼却処分にし、それまでのことが「なかったこと」にしてしまうあの戦争の惨禍をもたらした政治指導部と現在の東北大学のみっともない姿勢が二重写しに重なった。

 どんな場合でも「歴史をなかったことにする」「都合の悪いことは忘却させる、触れない」さらには「美化」してしまうという「歴史を改ざんする修「正」主義」は断じて許されることではない。
 我が身を常に振り返ることを続けていきたいものである。

「陸軍登戸研究所」見学会&明治大学平和教育登戸研究所資料館

2015年03月08日 13時02分31秒 | 読書
         

 川崎の生田にある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪れた。広大な明治大学生田校舎の敷地の一角にあるこの資料館と敷地内にある弥心(やごころ)神社、動物慰霊碑、「弾薬庫」跡、当時の消火栓などを見学した。ここの広大な生田キャンパスの敷地は1945年敗戦までは陸軍兵器行政本部所管の「第9陸軍軍事技術研究所」(登戸研究所)の跡地であったのを1950年に明治大学が購入して現在の形にしたものであった。
 この「研究所」は防諜・諜報・謀略・宣伝を意味する「秘密戦」のための兵器・資材の研究・開発をする、いわゆる戦争の裏面を支える部門であった。存在自体が秘密とされてきた部門である。
 始めは1937(S12)11月に「陸軍科学研究所登戸実験場」として発足した。初期は電波兵器、レーダーなどの無線機器、宣伝機器の開発をしていたが、2年後には毒物・薬物・細菌兵器・スパイ用品の開発、偽札・偽造パスポート製造などがおこなわれるようになった。
 1942年以降は風船爆弾も製造し、最盛期には11万坪、100棟に1000名を超す所員が従事していたという。研究所機能は1945年本土決戦ということで長野県伊那地方に分散疎開しそこで敗戦を迎えるが、地元雇用の職員はその時点で解雇されたようである。

将校・技師などの幹部職員は云うに及ばす、地元雇用の職員にも従事した業務には硬く口止めがされていて、その呪縛を解く努力が地元研究者の間で粘り強く行われ、ようやく戦後40数年も立ってから、研究所の研究内容、業務内容が少しずつ明らかになったという。この呪縛が多くの人々の人生を規定してきた。戦争というものの癒すことの極めて困難な傷跡がここにも存在していた。

 今回は資料館では「紙と戦争」という企画展を催していて、風船爆弾と偽札製造についての展示が多かった。
 風船爆弾は9000個が飛ばされたようで、確認されたもので361個の爆弾がアメリカ本土、カナダ、メキシコに着弾している。私たちが中学生のころ、歴史の授業で「笑い話」の一環としてこの風船爆弾の話を教師がしていたが、当時陸軍が本気になってかつこれほど大規模に実行していたのは知らなかった。
 メカニズムの開発、風船の素材の特注和紙の開発と調達、搭載爆弾の開発などが詳しく展示されている。
 和紙の開発は今回ユネスコ無形文化遺産登録となった埼玉県小川町が行い、四国の和紙などを中心に全国から特注和紙が取り寄せられたという。和紙をこんにゃく糊で張り合わせ化学処理をして軽量で丈夫な気球をつくる工程では勤労動員などで女学生などが使われた。
 高度5000mで太平洋を9000mも横断するメカニズムの詳細は今ひとつわからなかったが、二昼夜以上かけてバラストの投下を何回かしながら高度を維持し続けたらしい。気圧計を利用した高度維持装置を働かせたようだ。
 搭載された爆弾は当初は牛疫ウィルスを利用した生物兵器を予定し、「アメリカ人の食生活に打撃」を狙ったらしいが、解説によると「アメリカの報復を恐れて陸軍中央の判断」で通常爆弾・焼夷弾に変更された
 偽札製造は、日中戦争が長期化する中で中国経済の混乱をはかり、中国での軍による物資調達を容易くするために、中華民国国民政府が発行していた紙幣の偽札を大量にここの登戸研究所で作成し、中国国内に持ち込んでいた。国際法上きわめて問題となる国家による他国の模造紙幣の作成は極めて厳重な秘密扱いとされた。製紙・製版・印刷・インク調達などがここで行われた。
 当時中国では日本の物資調達でインフレーションが極度に進み、結果としては偽札は全発行高の1パーセント未満に留まり、作戦としては失敗したという評価となる。しかし日本がもたらした極度のインフレーションが蒋介石政権の国内での信頼を失わせ、国民党政権の崩壊・台湾脱出へとつながる。

 生物兵器では小麦の被害を与える細菌、稲を枯らせる細菌や稲の害虫の散布実験も行われた。風船爆弾に登載される予定であった牛疫ウィルスの開発も行われた。
 毒物兵器では中国国内に持ち込んで青酸ニトリルを実際に使った人体実験が行われ、その時の模様を証言した手記も公表されている。

 詳しくは添付のパンフレットを読んでいただきたいが、秘密とされたこの研究所の全容は残念ながら公式文書としては残されていない。
 海軍の日吉台地下壕の記録と同じように、1945年の二ヶ月ほど前から廃棄・焼却・証拠隠滅が行われ、文書・資材・機材が失われた。ごく限られた文書が奇跡的に見つかったり、戦後40数年たってからの生存者の手記・証言が当時を復元するよすがとなっている。
 和紙の技術、水のろ過器等々の技術は敗戦後も活かされているが、ほとんどは記憶とともに失われている。その失われたことの原因のひとつとして米軍による登戸研究所の研究成果の冷戦下の活用方針である。研究所の将校・技師等については極東軍事裁判(東京裁判)で情報提供と引き換えの免責が行われ、朝鮮戦争そしてベトナム戦争にまでその成果が活用されたと云われている。