Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「殷-中国最古の王朝」(落合淳思)

2015年03月05日 23時23分33秒 | 読書
   

 本日読み終わったのは「殷-中国最古の王朝」(落合淳思、中公新書)。
 殷については、白川静の甲骨文字についての著作、岡村秀則の「夏王朝」、伊藤道治「中国古代王朝の形成」などを読んだことがある。
 その他にもいくつか目にしたことがあるが、上記以外は周代以降の中国の歴史書、特に史記などに大きく依存したもので考古学や、科学的な史料批判に基づかないものが多く、いつも首を傾げる者ばかりであった。伊藤道治の著作は時代的な制約があるが、そこらへんを克服しようとしていたように思える。白川静は「文字学」の立場から思弁的にさまざまな殷の時代の文化・思考・政治を論証しようとした点でとても魅力的である。後代の史記などの著作にとらわれない論考を追及している。ただしやはり史料が限られていたり、考古学的な裏打ちが無いもどかしさを常に引きづっていた。
 この本の著者は白川静記念東洋文字文化研究所研究員という肩書からも想像できるが、白川静の研究成果を踏まえた論考であると信じられる。読み進めるうちに白川静の殷に対する理解の修正をしながら新しい殷という国を捉えなおしている。たとえば「子某」が王の子孫や擬制的な親子関係でもないことを明らかにしている。その結論が正しいのかどうかも含めて示唆の段階であるようだ。また甲骨文字に二系統の流れがあったことなども初めての知見であった。
引き続き著者の研究の進展をのぞみたいと思う。

忘れていた月に一度の飲み会

2015年03月05日 22時31分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 すっかり忘れていたが、本日は大久保での月に1回の集まりであった。昨日急に予定がなくなって休養日となり、ホッとして忘れてしまった。昨夜18時に友人と近くの駅の喫茶店で会うことを決めたときには頭の片隅にちゃんとあった。1時間ほど遅刻して参加してもいいと考えているうちに、頭の中から消えていた。多分今朝起きたときにはもう頭から消えていたと思う。
 スケジュール表にはちゃんと記載しているのに、それを見ることもしなかった。最近はどうもこのようなことが多くなったように思う。

 出席義務があるわけでもないし、欠席したから怒られるわけでもない集まりなので、その点は気は楽である。そして散財しなかったと思えば、それはそれで悪くない。


「鶴見川流域のくらし」横浜歴史博物館

2015年03月05日 21時26分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 午後から横浜歴史博物館を訪れた。企画展の「鶴見川流域のきらし-生業・水運・信仰・祭礼」を見てきた。
 鶴見川の水運に興味があった。八王子までの往来が江戸時代はどうして鶴見川沿いで舟運を使わなかったのか、というのが昔疑問に思っていた。その後各種講座で聴いたところによると、川舟では小机城あたりが川船の運行の限界で、それより上流と、源流域の町田を過ぎて八王子までは、起伏が多く陸路はつらいという指摘が多かった。確かに陸路では起伏が多い。今の16号線沿いに八王子に向かう方が起伏は少ないようにおもう。しかし帷子川は川幅が鶴見川よりも狭いので陸路が多いので荷はあまり効率的に運べない。さらに町田を過ぎるとこのふたつの陸路は随分と接近する。したがって陸路部分が厳しい、という指摘はどうもすんなりと納得できないでいる。今回鶴見川はどの辺まで船で溯上て来ていたのか知りたくて訪れた。
 展示を見る限り今の綱島あたりまでは長さが10メートルほどの川舟が溯上できていたようだ。5トンくらいの荷は運べたらしい。さらに小さな船では小机を越えてはいたようだ。しかし小机より2キロ位が限度ではないかというような印象を持った。
 その根拠は、明治維新後横浜・東京に供給するためこの鶴見川沿いで天然氷の製氷が行われていたということに示されていた。今ではとても信じられないが、明治初期この付近に多い谷戸では12月から2月の平均気温が氷点下であったらしく、天然氷の製氷がかなり活発だったとのことである。その氷を鶴見川の舟運で関内の氷室まで運んだらしいが、製氷所の分布が小机から2キロ位上流まで及んでいることから小さな川船で運んだのではないかと類推してみた。それよりも上流には製氷所は出来ていなかった。氷は鶴見川の河口まで川舟で運び、そこで艀に積み替え関内の港を経由して中村川沿いの氷室に搬入していたという。無論陸路の運搬も存在していたようで、今の地下鉄岸根公園駅=篠原池を経由して関内まで陸路を多分馬で運んだ記録も展示されていた。

 これより上流の鶴見川沿いの陸路は、八王子から小机までは歩いたことがあるが、下りだったこともありあまり難路には思えなかった。今度は逆に溯上してみることと、現在の国道16号線沿いの陸路も歩いて、どの程度の差があるかいつか実際に実感してみたいと思う。
 ただし昔の道であるから、自然環境だけでなく、所領の配置の関係などの社会的な要因も考慮に入れないといけない。もうすでに私も納得する回答はあるのかもしれない、私だけが答えを知らない可能性も高い。答えはすぐに見つかってはつまらないから、このまま少しずつ解明できればそれでいいと思っている。

 さて今回の展示で驚いたのはこの「製氷」という事業が盛況であったことである。さらに江戸時代からこの鶴見川沿いが素麺の生産地として栄えていたことは知らなかった。小麦やエゴマ油の仕入先までもわかっているとのこと。また柿栽培で江戸時代から大正時代までかなりの収入源であったらしい。明治以降はこれに桃の栽培が加わる。桃はひとつひとつ紙袋に入れて出荷していたらしく、現在にまでつながる作業のあり方に驚いた。
 江戸や神奈川の宿、そして開港地という消費地を背景とした商品作物の在り方は、江戸時代から昭和初期までその構造が変わらなかったらしいということのようである。
また煉瓦造りでも栄えたらしい。開港地の需要が高かったこと、鶴見川の舟運が洋風の都市の建設も支えていたらしい。

 その他、様々な習俗などの展示も興味を惹いたが、報告はここまでとしておきたい。

明日から啓蟄

2015年03月05日 20時02分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は予定が変更になって、休養日。18時から家の傍で15分から長くても30分位、退職者会の友人と喫茶店で会うことにした。
 天候は風も弱く陽射しがあって気持ちのいい日である。本日は十五夜、明日が満月。
 2月19日からの「雨水(陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也)」は本日まで。明日から3月20日までは「啓蟄(陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出れば也)」である。

 お昼前後は読書タイム。その後18時までどうするか?
 頭に思い浮かべたのは、横浜市歴史博物館の「鶴見川流域のくらし-生業・水運・信仰・祭礼-」展。鶴見川の水運は、江戸時代までは今の新横浜駅の先の小机城まで舟で行かれたと聞いているが、それを確かめられるかもしれないという期待を持っている。
 14時過ぎになって出かける気分になっているか、その時に判断しようと思う。