午後から横浜歴史博物館を訪れた。企画展の「鶴見川流域のきらし-生業・水運・信仰・祭礼」を見てきた。
鶴見川の水運に興味があった。八王子までの往来が江戸時代はどうして鶴見川沿いで舟運を使わなかったのか、というのが昔疑問に思っていた。その後各種講座で聴いたところによると、川舟では小机城あたりが川船の運行の限界で、それより上流と、源流域の町田を過ぎて八王子までは、起伏が多く陸路はつらいという指摘が多かった。確かに陸路では起伏が多い。今の16号線沿いに八王子に向かう方が起伏は少ないようにおもう。しかし帷子川は川幅が鶴見川よりも狭いので陸路が多いので荷はあまり効率的に運べない。さらに町田を過ぎるとこのふたつの陸路は随分と接近する。したがって陸路部分が厳しい、という指摘はどうもすんなりと納得できないでいる。今回鶴見川はどの辺まで船で溯上て来ていたのか知りたくて訪れた。
展示を見る限り今の綱島あたりまでは長さが10メートルほどの川舟が溯上できていたようだ。5トンくらいの荷は運べたらしい。さらに小さな船では小机を越えてはいたようだ。しかし小机より2キロ位が限度ではないかというような印象を持った。
その根拠は、明治維新後横浜・東京に供給するためこの鶴見川沿いで天然氷の製氷が行われていたということに示されていた。今ではとても信じられないが、明治初期この付近に多い谷戸では12月から2月の平均気温が氷点下であったらしく、天然氷の製氷がかなり活発だったとのことである。その氷を鶴見川の舟運で関内の氷室まで運んだらしいが、製氷所の分布が小机から2キロ位上流まで及んでいることから小さな川船で運んだのではないかと類推してみた。それよりも上流には製氷所は出来ていなかった。氷は鶴見川の河口まで川舟で運び、そこで艀に積み替え関内の港を経由して中村川沿いの氷室に搬入していたという。無論陸路の運搬も存在していたようで、今の地下鉄岸根公園駅=篠原池を経由して関内まで陸路を多分馬で運んだ記録も展示されていた。
これより上流の鶴見川沿いの陸路は、八王子から小机までは歩いたことがあるが、下りだったこともありあまり難路には思えなかった。今度は逆に溯上してみることと、現在の国道16号線沿いの陸路も歩いて、どの程度の差があるかいつか実際に実感してみたいと思う。
ただし昔の道であるから、自然環境だけでなく、所領の配置の関係などの社会的な要因も考慮に入れないといけない。もうすでに私も納得する回答はあるのかもしれない、私だけが答えを知らない可能性も高い。答えはすぐに見つかってはつまらないから、このまま少しずつ解明できればそれでいいと思っている。
さて今回の展示で驚いたのはこの「製氷」という事業が盛況であったことである。さらに江戸時代からこの鶴見川沿いが素麺の生産地として栄えていたことは知らなかった。小麦やエゴマ油の仕入先までもわかっているとのこと。また柿栽培で江戸時代から大正時代までかなりの収入源であったらしい。明治以降はこれに桃の栽培が加わる。桃はひとつひとつ紙袋に入れて出荷していたらしく、現在にまでつながる作業のあり方に驚いた。
江戸や神奈川の宿、そして開港地という消費地を背景とした商品作物の在り方は、江戸時代から昭和初期までその構造が変わらなかったらしいということのようである。
また煉瓦造りでも栄えたらしい。開港地の需要が高かったこと、鶴見川の舟運が洋風の都市の建設も支えていたらしい。
その他、様々な習俗などの展示も興味を惹いたが、報告はここまでとしておきたい。