35番目の展示は、10世紀パーラ朝の頃ガンジス川下流のナーランダーのもの。般若波羅蜜多菩薩というのは私にはなじみがないのだが、大乗仏教の基本となる般若経の本尊で知恵を象徴する、と解説にある。密教の発展に伴い観音菩薩が変化した准胝(じゅんてい)菩薩かもしれない、とのこと。どちらにしろなじみがない。
腕が4本の憤怒の顔をしているような女性の菩薩であるようだ。
女性の菩薩というのが私にはとても奇異であるが、観音菩薩に女性性を見たりすることもあり、インドという地で女性が菩薩という人を救うものとして信仰されていたことに何故かホッとする気持ちとなった。
展示番号52番目のターラー菩薩立像も10世紀パーラ朝やはりガンジス川下流域のもの。やはり女性の姿をしている。
「密教の展開」のコーナーで展示されている。ターラー菩薩というのもなじみがないが、観音菩薩の瞳(ターラー)から生まれ、眉の皺から生まれたブリクティーとともに観音の脇侍として成立した菩薩という。
ヒンドゥー教の影響を受けた密教で、多数の仏、菩薩その他が生じ、同時に世俗的にもなり、そして次第に多頭・多臂・獣面などの異様・異形の仏像が多数つくられるようになる。
仏教というものが大乗仏教からさらに密教というものに大きく変容していく姿がこれらの仏像に反映していると私には思える。
展示番号の55の摩利支天立像もそのひとつ。やはりパーラ朝の11世紀のビハール州のもの。摩利支天というのは、マーリーチーといい、陽炎が神格化した女尊とのこと。太陽の前に存在し、姿を見ることができないことをもって敵の前から姿を隠せる力があるとされ武人の信仰を集めたという。多面・多臂の像として作られるという。
この像も4面8臂で、他の3面は人の顔だが、向かって左の顔が猪であり、後ろにも顔(人面)がある。背面を見せて展示してある。背面にある人面は見えた。しかし前から見て透けて見える部分だけで全体の背面は見ることはできなかった。目についたのは玄武岩を削った鑿の跡。日本の木像には鉈目があり、それがまた紋様として意味があるようなのだが、ここにも同じように鑿の跡がある。何かの意味があるのか、紋様なのか、あるいは背面は装飾する必要が無かっただけなのかわからない。ただ背面を向いた面があり、正面からも背面がのぞけるということは何らかの意味があると考えた方が良さそうである。解説ではそこには触れていない。
56番目の展示の仏頂尊勝坐像で55と同じ時期のもの。これも女性像である。3面6臂でこれも背面が透けて見える。背面に顔はないが、55と同じように鑿の跡が整然とある。頭頂の仏は阿閦仏という。阿閦仏を表現したものが多く、阿弥陀が西方浄土なら阿閦は東方の浄土ということになるが、インドと違い日本ではあまり信仰されていない。
ヒンドゥーの影響を受けた密教の世界は私にはとても多様で異形の世界に見える。魅力もある反面、その世界に入り込むにはなかなか勇気がいりそうである。