久しぶりに本を読んでみようと、読みかけの本に手をかけたが、どうも読み切れない。字を追っても意味が頭に入ってこない。
何気なく、これまでにも取り上げた大岡信「百人百句」を再びめくってみた。読み慣れた本がこういう時にはいいのかもしれない。もう立春を過ぎたが、季題ごとに並んでいる百句の冬の部の最後に
★湯豆腐のかけらの影のあたゝかし 飴山 実
があった。
大岡信は飴山実という俳人(農学者)を高く評価しているのがわかる。
「繊細きわまる感覚を幻のこどくにとらえている。食事が進むにつれて湯豆腐はだんだんかけらになってぷかぷかとお鍋の中に浮かび、火を落すとかけらは底に沈む。そのかけらが灯に照らされて影をおとしている。その影そのものを「あたゝかし」と見ることによって、湯豆腐というものを視覚との独特な関りにおいてとらえている。ことことが、「湯豆腐」という季語を生かすことの意味でもある。彼の作品には、真剣に考え抜かれた季語の世界がある。」
と評している。
私も「湯豆腐」の句を見た時、観察の細かい作者だなと思うとともに、なべ底に小さく敷いた出汁用の昆布と豆腐以外には多分具はないであろう透明な鍋の中で、対流に沿って豆腐のかけらが上から下に動く様子を思い浮かべ、科学者らしい観察に親近感を覚えた。その対流の動きが「あたゝかい」のだという。豆腐のかけらが生き物のように振る舞い、食べた者の体の中でも動き回り、そして食べた者の気持ちを暖かくする。
大岡信の取り上げたこの作者の他の句の中では、
★小鳥死に枯野よく透く籠残る 飴山 実
もまたいい句だと思った。
小鳥が生きているときは、籠を覗けば、小鳥に焦点が自然に合い、飼うものと飼われるものの関係が複雑に反映する。しかし小鳥が死して籠を覗いても不在の小鳥に焦点が合うわけではない。そのまま籠の向こうに冬ざれの枯野が見えるだけという。作者の小鳥を亡くした心象風景が「枯野よく透く」に端的にあらわされていると感じた。
両句とも、湯豆腐のかけらの動き、小鳥不在の籠という対象をキチンとしぼり、その対象を分析的に観察したという事がよくわかる。その観察に人の温もりが寄りそっていると思った。
何気なく、これまでにも取り上げた大岡信「百人百句」を再びめくってみた。読み慣れた本がこういう時にはいいのかもしれない。もう立春を過ぎたが、季題ごとに並んでいる百句の冬の部の最後に
★湯豆腐のかけらの影のあたゝかし 飴山 実
があった。
大岡信は飴山実という俳人(農学者)を高く評価しているのがわかる。
「繊細きわまる感覚を幻のこどくにとらえている。食事が進むにつれて湯豆腐はだんだんかけらになってぷかぷかとお鍋の中に浮かび、火を落すとかけらは底に沈む。そのかけらが灯に照らされて影をおとしている。その影そのものを「あたゝかし」と見ることによって、湯豆腐というものを視覚との独特な関りにおいてとらえている。ことことが、「湯豆腐」という季語を生かすことの意味でもある。彼の作品には、真剣に考え抜かれた季語の世界がある。」
と評している。
私も「湯豆腐」の句を見た時、観察の細かい作者だなと思うとともに、なべ底に小さく敷いた出汁用の昆布と豆腐以外には多分具はないであろう透明な鍋の中で、対流に沿って豆腐のかけらが上から下に動く様子を思い浮かべ、科学者らしい観察に親近感を覚えた。その対流の動きが「あたゝかい」のだという。豆腐のかけらが生き物のように振る舞い、食べた者の体の中でも動き回り、そして食べた者の気持ちを暖かくする。
大岡信の取り上げたこの作者の他の句の中では、
★小鳥死に枯野よく透く籠残る 飴山 実
もまたいい句だと思った。
小鳥が生きているときは、籠を覗けば、小鳥に焦点が自然に合い、飼うものと飼われるものの関係が複雑に反映する。しかし小鳥が死して籠を覗いても不在の小鳥に焦点が合うわけではない。そのまま籠の向こうに冬ざれの枯野が見えるだけという。作者の小鳥を亡くした心象風景が「枯野よく透く」に端的にあらわされていると感じた。
両句とも、湯豆腐のかけらの動き、小鳥不在の籠という対象をキチンとしぼり、その対象を分析的に観察したという事がよくわかる。その観察に人の温もりが寄りそっていると思った。