熊谷守一展は来月3月21日まで。行けるときに行っておきたいということで、妻と二人で出かけた。妻のお目当ては「猫」。
会場の展示は3部構成。初めは「闇の守一:1900-10年代」。守一が20歳からほぼ40歳まで。20歳で東京美術学校に入学し、1910年にいったん故郷の岐阜県中津川にもどり材木運搬などの仕事をしたのち、1915年に画家として再上京するまで。いわゆる習作時代というのであろうか。裸婦像を中心に昏い色調の作品が並ぶ。解説では「感心を抱いたのは光と影」と記しているが、闇に融け込むような裸婦が執拗に描かれている。形はあまり判然とはしない。
1913年の「馬」という作品は故郷での山仕事で乗っていた馬を描いた作品。たぶん実際よりも足が短く、胴が長く形は歪だ。しかしどこか惹かるものがあった。
第2部は「守一を探す守一:1920-50年代」。40歳から70歳までの時期である。風景画や裸婦像が描かれるが、裸婦像は対象の形態からますます離れていき、色面と構図の要請に従う形態に変化していく。同時に不思議なことに私には抽象的な質感が増していくように感じた。形態が周囲に融け込むにしたがい、色彩の塊としての存在感が浮き出てくるように思われる。魂が浮かび上がるように思った。第1部の「轢死」の主題が第2部の時代にまで尾を引いているのであろう。
1930年代後半から1940年代、戦争の時代を大きな転換点として画風の転換、確率がされていく。戦争がどのように画家に作用したかは展示だけではわからないが、この大きな変化は画家の内発的なエネルギーによるものなのか、戦争という外在的な刺激が作用したのかは、解らない。しかしこの時期に転換したことは確かだ。わたしから見て大きな転換点となったと思われた作品は次のとおり。
画家が獲得する赤い輪郭線を用いた作品が1940年代後半以降一挙に開花していく。
「陽の死んだ日」(1928年)
「裸婦」(1930年)
「夜の裸」(1936年)
「式根島」(1939年)
「谷ヶ岳」(1940年)
「萬の像」(1950年)
「陽の死んだ日」について解説では、「次男、陽は数え年4歳で急逝しました。熊谷は「陽がこの世に遺す何もないことを思って、陽の死顔を描き始めましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」と熊谷の言葉を引用している。しかし熊谷は後年、21歳で亡くなった長女萬の病中の像を描いている。「萬の像」(1950)を見ると“絵”として画家の眼をとおした作品に仕上がっていると思った。
亡くなろうとする夫人を描いたモネを思い浮かべた。