大岡信の「百人百句」(講談社)から、
★除夜の妻白鳥のこと湯浴(ゆあ)みをり 森 澄雄
「白鳥」にはルビはないので、ハクチョウでもシラトリでもいいのだろうが、やはりシラトリだと思う。一読、ドキッとする俳句である。女性の裸身が目に飛び込んでくるようである。ロマンチックというよりも生々しさが先に立ってしまう。しかし解説を読むと違うイメージが浮かんでくる。
大岡信は「昭和二十九年になってもまだ生活はきびしく、森澄雄は療養生活をした後、学校の先生を続けていて、身体的にもつらい時期であった。武蔵野の片隅で、板敷きの六畳一間に親子五人でくらしていた。その土間に風呂が据えてあって、妻が浴びている。土間と部屋はつながっているのだろう。貧しく厳しいが、この句はロマンチックである。一年の最後の日に、妻がほっとして夜更けに一人でお風呂場で湯浴みをしている。それを「白鳥のごと」と言いとめたところに、何ともいいようのない妻恋いの思いが現われている」と書いている。
確かに妻を詠んだ句に惹かれる。
★妊(みごも)りて紅き日傘を小(ち)さくさす
★飲食(おんじき)をせぬ妻とゐて冬籠
★白地着てつくづく妻に遺されし
★子が食べて母が見てゐるかき氷
第1句、「紅き日傘」を配したところ、ならびに「小(ち)さくさす」と「ち」と読ませたところが私には気に入った。
第3句、「つくづく」も、もた読み下していくときに、「間」を意識しないだろうか。「妻」が残された私に託した思いとは何なのか、考えなくては、という間を与える。このような語を配した感性に敬服である。
その他の句では
★蘆(あし)枯れて水流は真中急ぎをり
★ぼうたんの百のゆるるは湯のように
などが紹介されている。
蘆原を流れる水流、そのなかほどの流れが速い、という。端ではなく、たぶん枯蘆の刺さっているあたりなのではないか。ここでいう早い、というのは現実の流れではなく、「早く思える」という意味なのだと思う。断言が心地よい、しかしその根拠は何も記されていない。