一日パソコンの前に座りっぱなしというのはよくないので、午後からは横浜駅まで歩いて往復、コーヒータイムではのんびりさせてもらった。パソコン前にずっといるので、眼がちかちかするのでテレビもあまり見ない。もっともテレビ番組そのものを普段からあまり見ない。しかもオリンピック放送ばかりのようである。オリンピックに関心を示さないのは、どうも非国民と云われるようで、居心地が悪い。喫茶店でボーっとしている時も、耳に入ってくる会話はオリンピックの話題ばかり。
私はどうも偏屈である。皆がオリンピックに関心を集めれば集めるほど、オリンピックの話題からは遠ざかりたくなる。マスコミなどで取り上げられる話題では特に偏屈である。皆がAに注目すると、Aからは顔をそむけたくなる。ワイドショー的な盛り上がりには小学生の昔から背を向けてきた。
私は小さい頃から人と競い合うということが嫌であった。幼稚園の頃から運動会や、かけっこなど争ったりすることがどうしても理解できなかった。走ること自体遅かったし、そもそもどうして一緒にかけている子を追い抜かなければいけないのか、わからなかった。どうして赤組に勝たなくてはいけないのか、不思議で理解できない世界のことのように感じた。
球技をしてもなぜ人をだますようなトリックプレーをしなくてはいけないのか、ボールを奪い合うということすらも理解できなかった。クラスの友達も、先生も納得のいく答えや考えを示してくれる人はいなかった。
走る、ということも一人で楽しんで走ることを自分で理解したのは30歳を過ぎてからである。ジョギングを覚えて、スポーツとは一人で、自分の記録を楽しみながら伸ばすことだと知った。伸ばす記録というのは、タイムであったり、距離であったり、さまざまである。人と争わなくとも記録は伸ばせる。自分の限界を少しずつ伸ばすこともできる。人と競り合わなければできない身体能力などと言うのはないはずである。
本来はスポーツというのは孤独なものなのではないだろうか。孤独に耐えられることが、身体能力への大きなばねだと思う。私は集団競技というものは本来のスポーツとは異質なものだと信じている。
私の理想から言えば、スポーツから「国家」や「企業」、「母校」、「クラス」、「地域団体」やら「金」や「宣伝」、「企業イメージ」というような集団性・共同規範などをはぎ取ってしまうべきだと思っている。残すのはあくまでも個人であるべきだ。
私はどうも偏屈である。皆がオリンピックに関心を集めれば集めるほど、オリンピックの話題からは遠ざかりたくなる。マスコミなどで取り上げられる話題では特に偏屈である。皆がAに注目すると、Aからは顔をそむけたくなる。ワイドショー的な盛り上がりには小学生の昔から背を向けてきた。
私は小さい頃から人と競い合うということが嫌であった。幼稚園の頃から運動会や、かけっこなど争ったりすることがどうしても理解できなかった。走ること自体遅かったし、そもそもどうして一緒にかけている子を追い抜かなければいけないのか、わからなかった。どうして赤組に勝たなくてはいけないのか、不思議で理解できない世界のことのように感じた。
球技をしてもなぜ人をだますようなトリックプレーをしなくてはいけないのか、ボールを奪い合うということすらも理解できなかった。クラスの友達も、先生も納得のいく答えや考えを示してくれる人はいなかった。
走る、ということも一人で楽しんで走ることを自分で理解したのは30歳を過ぎてからである。ジョギングを覚えて、スポーツとは一人で、自分の記録を楽しみながら伸ばすことだと知った。伸ばす記録というのは、タイムであったり、距離であったり、さまざまである。人と争わなくとも記録は伸ばせる。自分の限界を少しずつ伸ばすこともできる。人と競り合わなければできない身体能力などと言うのはないはずである。
本来はスポーツというのは孤独なものなのではないだろうか。孤独に耐えられることが、身体能力への大きなばねだと思う。私は集団競技というものは本来のスポーツとは異質なものだと信じている。
私の理想から言えば、スポーツから「国家」や「企業」、「母校」、「クラス」、「地域団体」やら「金」や「宣伝」、「企業イメージ」というような集団性・共同規範などをはぎ取ってしまうべきだと思っている。残すのはあくまでも個人であるべきだ。