Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「スポーツ」なるものは苦手‥

2018年02月16日 23時32分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一日パソコンの前に座りっぱなしというのはよくないので、午後からは横浜駅まで歩いて往復、コーヒータイムではのんびりさせてもらった。パソコン前にずっといるので、眼がちかちかするのでテレビもあまり見ない。もっともテレビ番組そのものを普段からあまり見ない。しかもオリンピック放送ばかりのようである。オリンピックに関心を示さないのは、どうも非国民と云われるようで、居心地が悪い。喫茶店でボーっとしている時も、耳に入ってくる会話はオリンピックの話題ばかり。
 私はどうも偏屈である。皆がオリンピックに関心を集めれば集めるほど、オリンピックの話題からは遠ざかりたくなる。マスコミなどで取り上げられる話題では特に偏屈である。皆がAに注目すると、Aからは顔をそむけたくなる。ワイドショー的な盛り上がりには小学生の昔から背を向けてきた。

 私は小さい頃から人と競い合うということが嫌であった。幼稚園の頃から運動会や、かけっこなど争ったりすることがどうしても理解できなかった。走ること自体遅かったし、そもそもどうして一緒にかけている子を追い抜かなければいけないのか、わからなかった。どうして赤組に勝たなくてはいけないのか、不思議で理解できない世界のことのように感じた。
 球技をしてもなぜ人をだますようなトリックプレーをしなくてはいけないのか、ボールを奪い合うということすらも理解できなかった。クラスの友達も、先生も納得のいく答えや考えを示してくれる人はいなかった。

 走る、ということも一人で楽しんで走ることを自分で理解したのは30歳を過ぎてからである。ジョギングを覚えて、スポーツとは一人で、自分の記録を楽しみながら伸ばすことだと知った。伸ばす記録というのは、タイムであったり、距離であったり、さまざまである。人と争わなくとも記録は伸ばせる。自分の限界を少しずつ伸ばすこともできる。人と競り合わなければできない身体能力などと言うのはないはずである。
 本来はスポーツというのは孤独なものなのではないだろうか。孤独に耐えられることが、身体能力への大きなばねだと思う。私は集団競技というものは本来のスポーツとは異質なものだと信じている。
 私の理想から言えば、スポーツから「国家」や「企業」、「母校」、「クラス」、「地域団体」やら「金」や「宣伝」、「企業イメージ」というような集団性・共同規範などをはぎ取ってしまうべきだと思っている。残すのはあくまでも個人であるべきだ。

枯れ芭蕉と枯れ蓮

2018年02月16日 20時38分38秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先月友人と横浜市の港南区を流れる馬洗川の源頭を訪れるウォーキングを行った。途中の休憩施設をもうけた水辺には芭蕉が飢えられ、見事におおきく育っている。芭蕉の葉の枯具合というのは見事である。あのようになんら躊躇なく見事に枯れる、ということが羨ましく感じた。
 同時に芭蕉の葉のあの見事な枯れ具合は好みがいろいろあるようだ。みごとと云えば蓮の枯れた様もいい。芭蕉は芭蕉なりの見事さがある。蓮には蓮の見事さがある。

★芭蕉枯れて水面はネオン散らしけり    五島高資
★大芭蕉従容として枯れにけり       日野草城
★ひとつ枯れかくて多くの蓮枯るる     秋元不死男
★彼蓮のうごく時みてみなうごく      西東三鬼

霜柱

2018年02月16日 11時03分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日と明日、団地の管理組合の明日の会議のための資料作り。明後日も退職者会の資料作りで、都合3日間パソコンと睨めっこである。
 熊谷守一展の感想の2回目は、会議の資料作りの合間を縫って、出来れば明日までにはアップしたいとは思っているが、はたしてできるであろうか。

 今年は霜柱を多く見かける。寒さが厳しい日が続いているためである。まだ小学生の頃は道路の舗装がされていないところも多く、霜柱を踏んで歩くのが当たり前だったが、今では霜柱を踏んで歩くことはまずなくなった。建物の北側の草地にでも足を踏み入れない限りは霜柱の感触は味わうことが出来なくなった。
 靴の下でサクッサクッという音と感触は独特である。踏むと倒れて氷が露出し朝日にあたってきらめく。2段、3段になった塊を手にして太陽にかざすと宝物のように感じたものである。同時にごく近い箇所の霜柱でも、短く硬く、乗っても崩れないものもあれば、長くてすぐに崩れるものとがある。聴覚と触覚と視覚で楽しめるのが霜柱である。

★くづれゆく自負のもろさや霜柱     平賀扶人
★霜柱踏んで朝の日散らしけり      池田寿江
★霜柱踏めば軍靴の音生まれ       田中矢須彦


 第1句、もろく崩れる霜柱ほど融けやすく、持ち上がったローム層の赤土や黒土などですぐに汚れてぐちゃぐちゃになる。無惨に崩れる自負ほど本人にとって厭わしく思われるものはない。自分のことであるのでなおさらである。傍からみれば、そんな自負など無い方がいい、と冷たく言ってしまいたいものなのだ。
 第3句、霜柱を踏んだときの小気味のいい音に、軍靴の音が重なる。これはとても悲しい体験である。初めは小気味のいい行進の音とともにあった軍靴の音、しかしそれは悲しい現実に転化するものでもあり、さらには国家そのものの破滅への音でもあった。心地よいものに惹かれてしまった悔恨を感じた。