歳をとると同年代の友人から「叶わなかった「夢」ばかりが思い出される昨今」と云われることがある。私はいつも「夢」とはそもそも何だったんだろう、と思うようになった。
友人が2月9日の私のブログ「私の捨てた「夢」」の記事に、「捨てた夢の数だけ希望があった」とツィートしてくれた。
そうなのだ、私の「夢」とはいったい何だったのだろうか。少年時代までの淡い「夢」を追う時代を過ぎてから、10代末以降の夢を「大人の夢」として捉えても、実現した「夢」はない。壮大な「夢」など持ったことはない。日々の小さな目標といった程度の「夢」くらいならば持ったことはある。それ以上でもそれ以下でもない。そもそも遠い将来や人生の目標とすべき「夢」があったのだろうか。そんなことすら考える。記憶にあるのは、ただただもがき続けてきた50数年の苦しかったことばかり。家が欲しいとか、お金が欲しいとか、起業したいとか、有名になりたいとか、そのような夢はもともとなかった。ひょっとしたら社会や職場やらで、もがき続けることが、やりたいことの「核」だったのだろうか。
最近は若い人に何でもかんでも「夢を持て」、「夢は必ず実現する」などと「夢」を押し付けることばかりである。そんなに「夢」を押し付けられたら窒息する子どもも多数出てくるのではないだろうか。「夢」を持っていなかった人間までもが子どもに「夢」を持てという。
言い方を変えれば、友人のように「捨ててきたものをあとから見るとそれが「夢」」なのである。捨ててきたものこそが「夢」なのである。いつまでもしがみついていたらそれは「夢」ではない。しがみついていたものは、気がついたら腐ったゴミでしかない場合もある。
私は「「夢」にしがみつくな」ということを若い人に伝えたいことばとしてあってもいいのではないか、と思う。