Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

休養日&休肝日

2018年02月13日 23時29分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日もアルコールは抜き。二日続けてまたも休肝日&休養日。バリウムが出てしまう明日はアルコール解禁となりそう。

 先ほどは「夢」について記した。そののち思い出したことがある。このことはまたいづれ書かなくてはいけないことでもある。しかし今はまだ書く時期でもない。もうしばらくは温めておくしかない。

「夢」について

2018年02月13日 21時49分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 歳をとると同年代の友人から「叶わなかった「夢」ばかりが思い出される昨今」と云われることがある。私はいつも「夢」とはそもそも何だったんだろう、と思うようになった。
 友人が2月9日の私のブログ「私の捨てた「夢」」の記事に、「捨てた夢の数だけ希望があった」とツィートしてくれた。
 そうなのだ、私の「夢」とはいったい何だったのだろうか。少年時代までの淡い「夢」を追う時代を過ぎてから、10代末以降の夢を「大人の夢」として捉えても、実現した「夢」はない。壮大な「夢」など持ったことはない。日々の小さな目標といった程度の「夢」くらいならば持ったことはある。それ以上でもそれ以下でもない。そもそも遠い将来や人生の目標とすべき「夢」があったのだろうか。そんなことすら考える。記憶にあるのは、ただただもがき続けてきた50数年の苦しかったことばかり。家が欲しいとか、お金が欲しいとか、起業したいとか、有名になりたいとか、そのような夢はもともとなかった。ひょっとしたら社会や職場やらで、もがき続けることが、やりたいことの「核」だったのだろうか。

 最近は若い人に何でもかんでも「夢を持て」、「夢は必ず実現する」などと「夢」を押し付けることばかりである。そんなに「夢」を押し付けられたら窒息する子どもも多数出てくるのではないだろうか。「夢」を持っていなかった人間までもが子どもに「夢」を持てという。
 言い方を変えれば、友人のように「捨ててきたものをあとから見るとそれが「夢」」なのである。捨ててきたものこそが「夢」なのである。いつまでもしがみついていたらそれは「夢」ではない。しがみついていたものは、気がついたら腐ったゴミでしかない場合もある。
 私は「「夢」にしがみつくな」ということを若い人に伝えたいことばとしてあってもいいのではないか、と思う。

癌検診、取りあえず終了

2018年02月13日 17時37分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の検査は無事終了。といっても本日の検査でつらいのは胃癌検診のバリウム検査だけである。採血、エックス線、エコーということで楽である。
 バリウムを飲んでの胃の撮影はいつもは特につらいことはない。バリウムの排出も特に私は問題なくスムーズである。
 今年は胃の撮影で少し目がまわった。体をぐるぐる台の上で回転する時に、台も頭を下にしながら回転させられたので、車酔いのような具合になった。一瞬眩暈がして、吐き気を催したが、直立の姿勢に戻ったらすぐに治った。機械の操作、検査する人によってさまざまに癖がある。できれば少しゆっくりとした操作を願いたいものである。
 それ以外は特に問題はなかった。下剤も気持ちよく効いた。あと1回くらいでバリウムはすべて排出できそうである。これがつらい人も多いと聞く。妻はこのバリウムを飲むのがつらいという事で、今年から胃の検査は内視鏡を選択した。
 大腸の内視鏡検査は再来週の27日と決まった。こちらの方が憂鬱である。

 検査終了後、ランチは病院内の食堂でカキフライの定食。