Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「万葉集講義」(中公新書)読了 その2

2021年04月07日 22時26分39秒 | 読書

 終章「偉大なる文化遺産のゆくえ」からいくつかの文章を引用しておくことにした。
 同意、不同意を含めて、記憶しておきたい。

「日本の歌の二つの源流
・言葉を使って生きてゆくということは、言葉に支配されるということである。
・日本語を使って生きてゆくということは、日本語に支配去れるということである。
・漢字を使って生きてゆくということは、漢字に支配されるということである。」

「日本社会は無文字社会から、漢字を学習することによって、東アジア漢字文化圏に組み入れられた。‥試行錯誤が行われ、歌を書き留めることに成功し、‥一つの歌集に結集された‥。すると日本語は二つの源を持つということになろう。一つの淵源は日本語の歌である。‥五世紀以前の人々が口から耳、耳から口へ歌い継いでいた日本語の歌々である。その名残を、「万葉集」から推定することはできても、その全貌を知り得ることはできないのである。」

「もう一つの源は、中国の「文選」とう書物である。(文選に)収録された詩文の年代は紀元二世紀ないし三世紀から六世紀前半に及ぶ‥。」

「外来文化の同調圧力が大きくなるたびに、「万葉集」は脚光を浴びはじめ、いわば休眠滋養帯から目覚める‥。では、万葉覚醒のたびに「万葉集」に求められたことは何かといえば、それは「万葉集」の日本的側面だけなのである。‥「万葉集」の淵源の一つは、中国の「文選」にあるのであり、六世紀の中国詩の文学理論にその源がある‥。今、もし「万葉集」に風が吹いているとすれば、それは、なせか。おそらく、日常生活まで押し寄せてきたネット文化とAI化の重圧によるものであろう。ネット社会は英語が支配する社会なのだ。‥グローバル化の波に対して抗する力が、今、働き始めたのである。‥グローバル化の中での日本回帰、万葉会期をあからさまには否定したくない。‥いつの時代にも、文化の辺境に生きる私たちは、そうやって心のバランスを取ってきたからである。‥やみくもな(万葉集)礼賛言説に対しては、「「文選」なくして「万葉集」なし」と言ってバランスを取りたい、と思う。」

   

 


関内近辺の花の散策

2021年04月07日 20時34分52秒 | 山行・旅行・散策

                             

 陽気に誘われて妻と関内近辺を散策。まずは関内桜通りで見ごろのヤエザクラを堪能、次に日本大通を歩き、街路樹の元の花々を愛で、最後に横浜公園のチューリップを見て回った。
 今週中が見ごろと思われる。老若男女が多数歩いていた。しかし横浜駅の地下街ほどの人ごみではなかったので、ゆっくりと見て回ることが出来た。
  散策後は、私は打ち合わせのために組合の会館へ、妻は買い物をしてから帰宅。


指揮者カルロス・クライバー

2021年04月07日 10時20分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 日曜日の深夜、月曜日に日付が変わってからBS放送で、カルロス・クライバー指揮、ウィーンフィルによるモーツアルトの第36番のシンフォニー「リンツ」と、ブラームスの第2番のシンフォニーを放映していた。1991年のウィーンでの録音・録画。
 クラシック音楽ファンならば聞いたことのあるクライバーの名であるが、私は初めてその演奏と表情に接したと思う。
 録画しておいて、月曜の深夜にモーツアルト、昨晩の深夜にブラームスを聴いた。

 モーツアルトでは、指揮者はほとんど体を動かさず、曲想の変わるところ、変化のはじめだけ軽く腕を振るというスタイルにびっくり。しかし顔の表情にはすっかり見入ってしまった。動きの少ないことは驚くほどで、第三楽章のオーボエとファゴットの聴かせどころでは、なんと左手を式台の後ろの支えにおいてしまって、リラックスのポーズ。
 モーツアルトの音楽の流れに任せて、スポットだけ腕を振るというスタイルである。

 ところが昨晩聴いたブラームスでは、一転汗が流れるように躍動感あふれる指揮ぶりにまたまた驚いた。
 モーツアルトとは違って、自ら音楽をつむぎ出す、あるいは編み上げるという姿勢に変化している。とはいえ現代の指揮者の大仰な指揮ぶりとも違う。
 入念なリハーサルで有名な指揮者だったので、曲の解釈や自身の思いは伝わっており、指揮振りとは違った劇的な演奏にも魅了された。
 楽器群の配置もまた古い形を基本にしているのであろうか。指揮者の左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン。ホルンが指揮者の左に位置し、金管では左からチューバ・トロンボーン・トランペットという今の配置とは全く逆であった。そして最後列にコントラバスが一列に並ぶという私には不思議な配置に思えた。
 実際に音響が演奏会場ではどのように聞こえるのか、演奏会場で直に体験してみたくなった。
 ウィーンフィルといったん決別した後の和解した時の演奏ということで有名になった演奏ということもネットの情報に載っていた。

 またクライバーは、ベートーヴェンの第4番のシンフォニーにこだわりがあったようである。私はこの第4番が好みではない。一度クライバーの指揮による演奏を聴いてみたいと思った。ブラームスの第4番のシンフォニーも聴いてみたいとも思った。

 現在の指揮者、特に若手の指揮者が大きな身振りで、曲の流れに合わせるという身振りよりも「自分が曲を紡ぎ出している」という姿勢の強調には、お節介な心配をしてしまう。指揮者の役割の変遷の違いがあると思うし、またテレビなどの映像表現との兼ね合いなどもあることは承知をしているが、独り相撲のようなあまり大仰な指揮ぶりには、私は違和感が強い。