Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

視力の衰え Ⅱ

2021年04月24日 22時22分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 (続き)白内障の手術をいてくれて眼科医が、「近視・遠視はもともと眼球のいびつさが原因。あなたの眼球はとても奥行きがある。生まれた時から奥行きがこんなにあったか、あるいは成長とともに長くなるような遺伝的なものなのか、不明だがそれが近視の原因」というようなことを行った。
 遺伝的と言われたものの、両親ともに近眼ではなかったので不思議な思いはあった。しかし遺伝的といってもすべての子にそれがあらわれるわけではない。たまたま私がそのような遺伝的な形質が発現したのかもしれない。
 少なくとも眼球の歪が、本と目の距離が近かった所為でも、目の周りの筋肉の疲労などが原因ではないことは想像できた。むろん外からの強い衝撃などが原因の場合は否定できないが、少なくとも私はそのようなことは当てはまらない。

 こんなことを考えたり、思い出したりしているうちに、再び目がショボショボしはじめ、そして眠くなってきた。能の疲労による睡魔とは違い、焦点が合わなくなってきた。

 本日はこれ以上目を開けていることは無理。早めに寝るしかないようだ。

 


視力の衰え

2021年04月24日 21時07分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 講演会とシンポジウムは無事終了。
 午前中の作業のためか、目がのショボショボがなかなかなおらず、帰宅後も30分ほど目を温めてみた。ようやく先ほど症状がおさまった。眼鏡を変えたほうがいいのか、月曜日に眼科で相談してみることにした。

 視力の衰えというのは、実につらいものがある。若いころは視力がこのように悪くなるというのが、想像もできなかった。想像できないのか当たり前であるが、しかし、目を大事にしろと言われたものの、大事にするとはどういうことなのか、誰もが分かっていなかったはずである。それは多分今でも同じだと思う。
 本と目の間の距離を離すように、と言われてもそれが本当に視力の悪化を防ぐことだったのか、誰も証明などしてくれない。もしもそれが本当のことならば、人は本など読まずに、また字など書かずにいたほうが、いいに決まっている。
 しかも現在は私が子どもの時よりも、目の負担はもっと大きい。パソコンやスマホなど論外である。私の視力の衰えは、それらだけが原因とは到底思えない。読書やパソコンやスマホが原因ならば私は、とうの昔に視力そのものを喪失しているはずである。
 視力と目の周りの筋肉の疲労とは、相関関係にあると断定していいものなのだろうか。

 健康に良くないこと、というのは意外と眉唾ものなのだと最近思うようになった。


午前中の作業は終了

2021年04月24日 12時36分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 少し早めに起きて、8時45分から退職者会のニュースの編集作業。今回はA4版の両面といつもの半分の小型版。A3版の両面の通常号の記事の4分の1の分量になる。今回は私の作った原稿をそのまま輪転機で印刷する予定。
 写真やチラシを新聞用に加工したりしているうちに3時間があっという間に過ぎてしまった。途中で10分ほどの休憩を2回とったものの、もう目がショボショボ。本日の作業はここまでにしたい。

 午後は元国連事務次長の明石康氏の講演会とシンポジウム。この報告記事も作成中のニュースに掲載予定なので、聞きながら記事用にメモ作成と写真撮影。いつものバターンである。
 昨年までと違うのは、終了後に退職者会からの参加者で感想を述べあいながらの自主的な歓談は中止であること。むろん支払いは自費である。会話しながらいつもまとめを考えている。そうすると独りよがりの報告ではなく、多角的な視点での報告にすることができるのだが、致し方ない。喫茶店でも声が大きくなりがちなので避けている。