Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

擦り傷から切り傷へ、たん瘤へ

2022年11月25日 22時34分29秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 以下つまらない話をつらつらと‥‥。

 実に久しぶりに指先を紙で切ったようだ。午後遅くバスに乗って出かけたのだが、バスを終点の横浜駅で降りて、地下街に備え付けてあるアルコールで指先の消毒をした。アルコールを噴霧した瞬間、思わず飛び上がってしまった。周りの人も驚いたかもしれない。
 指先を見ると少し血がにじんで2センチほどの長さの細い傷が出来ていた。形状からして紙で切ったに違いない。退職者会ニュースの原稿を読むために打ち出した紙を折ったときに傷をつけたらしい。
 大学生の頃は謄写版の紙をめくるとき、そして1500枚をわずか30分で配布し終わる学生向けビラの配布時によく指を更紙で切った。
 仕事が現役のころは組合のビラや新聞を輪転機にかけて作っていた。印刷が終わったものを揃えたり、職場ごとに枚数を揃えて発送したり、ビラを職場に撒いたり、そんな作業の時にときどき紙で指先を切ったものである。
 しかし退職してからはそのような傷を作った記憶はごく数回しかない。輪転機の性能もよくなり、給紙のために紙をしごいたりする必要もなく、出来上がりも紙がかなり揃っているのでしごく必要がなくなっていた。
 紙で切ってしまう傷は、ほんのちょっとの油断で出来てしまう。ピリッとしたときはもう血がにじんでいる。
 今回は意外と長い傷であった。便所で石鹸で手を洗っても痛いし、アルコール消毒は無理。ということで百円ショップに駆け込んで、指先用の防水の絆創膏を購入した。
 傷は痛みが少しあるが、痛みよりも「懐かしい傷」という感想のほうが先に立った。何となく愛おしいような傷である。
 帰宅して傷用の薬を少しだけ塗って再び絆創膏を貼った。昔の自分を思い出している。私は小学生の低学年までよく転んで膝を擦り剝いて当時の「赤チン」をよく塗った。絆創膏などはなかったが、時々は包帯を巻いた。その不器用さは娘に伝わったようだ。娘もよく転んで擦り傷が絶えなかった。
 私は小学校も中学年になると転んで怪我をすることはなくなったが、大学に入って紙で指を切ることが常態化して、また赤チンのお世話になった。

 ここまで書いて、ふと思い出したのが、たん瘤。現役時代は切り傷と同時に、職場の倉庫や書庫で棚の角や段ボールに頭をぶつけて小さなたん瘤をよく作った。さらにときどき、酔っぱらって道沿いの電信柱やコンクリートの壁に頭をぶつけて少しばかり大きめのたん瘤をこしらえた。
 電信柱にぶつかったときはかなり大きなたん瘤であった。娘には電信柱にぶつかったとは恥ずかしくて言えなかったので、建物の外階段にぶつかったと咄嗟に言いわけした。しかしどちらもおなじように恥ずかしいことに変わりはなかった。小学生だった娘もそれはうすうす感じたのではないか。しかし黙っていてくれた。

 擦り傷から切り傷へ、そしてたん瘤へ、それなりに怪我とは縁が切れない人生であった。小さな傷で済んで良かったと思うべきなのだろう。


プリンターの使い分け

2022年11月25日 21時08分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は実に暖か。でも夕方になるとさすがに冷えてきた。ストーブを点けることにした。

 午後遅くに杖を突かずに横浜駅まで出かけた。これまで使っていたプリンターのインクカードリッジの使用済みのものとまだ使っていないもの3つほどを廃棄。使っていないものはもったいなかったが、引き取ってくれるわけでもないようなので、やむなく廃棄。
 最大A4用のプリンターも、今度の新しいA3用のスキャナーとの複合機もインクはボトル式なのでカートリッジの廃棄がなく、結果としては安価な上、インクの補充の取り扱いも楽である。
  新しいプリンターは、スキャナー機能ならびにA3とA4の印刷、これまでも使っていたインクボトル式のプリンターはB5とA5、A6そしてハガキ等の印刷、ならびにスキャナーの予備と使い方を分けて使用する予定。
 人よりはかなり多いプリンターの使用頻度である。新聞の原稿の出来具合、退職者会の会議の資料の打ち出し、自分なりの資料の作成、スケジュール帳の更新ごとの打ち出し‥。ほとんどが退職者会関係の印刷で使用する。持ち出しばかりだが、そのことはやむを得ないと納得はしている。役員は皆同様である。

 本日の歩数計のカウントは約5000歩ほど。一昨日の半分程度。やはり横浜駅の人が大勢歩いているところは怖く、壁に近いところをつい足を引きずって歩いてしまう。しかし家の近くのバス停に降り立つと、人通りも少なく、車が余り通らない裏道を歩くので、足を引きずることなく歩きとおすことが出来た。
 膝の痛みは階段の昇り降り以外はほとんど感じなかったことが嬉しい。しかし用心をして寝る前には湿布を塗布したい。

 


社会の行き詰り

2022年11月25日 13時34分40秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 2014年3月2日付のこのブログに私は次のように記している。8年半たった今もこの私の思いは変わらない。変えなくてはならない点があるとすれば、現在の日本は経済的にも政治的にも「衰退途上国」になり、「経済的反映」がまだ続いているかのような幻想に浸りきっている社会になったという現状認識であろう。
 「国家」や政府、そして「企業」が国民や社員一人一人の経済的保障も、さらに政治的・法的な平等すらも平然と忘却し、あらゆる場面で格差社会が当たり前となったのがこの8年半であった。
 そして国家の論理が強まり、個人の生きづらさが増大し、若い世代のいじめから社会全体のいじめ構造へ、そして排他的な政治思想が横行し、閉塞的な社会になってしまった。文化的にも社会全体としても、他者を受け入れる柔軟性を喪失してしまった。
 ますます悲観的になっている昨今の私である。

 世界も、日本を取り巻く情勢も私の思いとはまるで正反対の方向に向いている。自国の制度がもっともすぐれているという思い込みの激しい国が、国力に物を言わせて他国をねじ伏せる力学が、新しい国も加わっていつまでたっても続く。
 「国家」を解体止揚しなければならない、という基本を踏まえた政治思想が大切だと私は今でも思っている。1960年代のあの問題提起はどこに消えてしまったのだろうか。戦後の日本の国家体制の中で、あの戦争に突入していったことへの根源的な批判・反省、そして戦争を遂行したものも、「終わらせた」という者も共に犯した戦争犯罪が、いつの間にか有耶無耶のうちに忘却されようとしている。
 政治というものが、あたかも市民社会全体の価値観を規定できるものだという錯覚を振りまいている政治家ばかりが大手を振っている。とても危険なことだ。過去への回帰を危ぶむ声が大きい。また日本の現政権のトップは過去についてあまりに無知である。しかし問題は、政治が社会全体を「導く」という大いなる錯覚を政治家が抱いていることである。またそれを当然であると支持する世論も怖い。経済的な繁栄、そして「国家の論理」に踊らされては道を誤ることは確かだ。
 「国境」という概念、「国家」という観念、ここから自由にならない限り、今の国際関係の止揚・解決はないように思っている。
 いたずらに危機を煽る政治家たち、とくに日・中・韓の現政権は国家内部の矛盾をそこで逸らそうとしている。実に古い手法である。経済がグローバル化している現在ではそれが手法として成立してほしくないのだが、私の甘い願望だろうか。
 他国を力で抑えようとすること、自国の価値観を押し付けること。このことは日本がかつて行い、アメリカ・ソビエトが戦後も行い今も実施し、そして日本はそのことを忘却しようとしている。
 他国を押さえつける国は、必ず自国の中で「国家の存続のため」という理由で国民を押さえつけている。これは間違いのない教訓である。
 私は1960年代に学んだことで今の政治状況に欠けていると思うことがもう一つある。それは戦後の秩序を形作った、保守-革新という対立構造を止揚するという志向が無いということである。
 「革新」の側からすれば「戦争の元凶は保守」であり、「アメリカという軍事力を背景に国民を押さえつけている」という。「保守」の側からすれば、「革新」はソビエト・中国の手先であり革命・戦争を画策しているという。
 そしてアメリカの強引な基地拡張や騒音問題に対する生活や命をかけた抵抗運動、反原爆・反核運動は「革新」の領分で、戦勝国による東京裁判への批判や天皇制の死守は「保守」の領分であった。
 もっと不思議なのは戦後の国際連合秩序という「戦勝国」による秩序、東西冷戦構造の妥協の産物に率先して参画したのが、A級戦犯を抱えた「保守」政権である。戦後の国際秩序の前提である戦後憲法を「アメリカの押しつけ」として否定しようとしているのが、国連加盟を推進した「保守」。その憲法を守れといっているのは「革新」である。
 このような不思議な捩れを私たちはずっと当然のように受け入れてきた。このような不毛であいまいで、不思議な構造を超える政治思想を模索しようとしたのが、1960年代に台頭した政治思想ではなかったのだろうか。残念ながらそれは日の目を見なかったが、忘却の彼方に追いやってしまっていいのだろうか。
 私は政治に関わることを断念した人間である。政治の非情を前にたじろいだ人間である。その私が偉そうなことは言えないかもしれないが、逆に政治の醜さの止揚と危うさへの警鐘は言い続けなければいけないと思っている。