明日は本日よりも温かいとの予報。夕方から打ち合わせ。帰りは中華街に寄る予定。ウーロン茶が購入できる時間があればありがたい。
ということは夕方までは読書タイムが久しぶりに確保できそうである。
本日岩波書店の広報誌「図書11月号」が届いた。これと「名画の生まれるとき」の2冊を交互に。「名画の生まれるとき」に少し時間をかけすぎている。当初は1週間もかからないと考えていたが、退職者会ニュースの編集作業に手間がかかり過ぎてしまった。
大した話ではないが、ちょっとしたこだわり。
最近のおにぎりは三角型ばかりになった。昔は関西は俵型、関東は三角形と言われたものである。情報によるとコンビニのおにぎりが作りやすい三角形で全国統一で販売したことで、三角があっという間に主流になったという。
私は横浜よりも西に住んだことがないが、母親の作るおにぎりは俵型が主だったようだ。母親の両親は関西の出であった。父親もしかり。しかし小学校低学年までいた函館では遠足などに俵型おにぎりがお弁当箱に入っていたけれども、函館でも特に違和感はなかった。俵型の弁当の子も三角形の子もいた。
小学校高学年で川崎・横浜に移ったが、お弁当でおにぎりを持っていくようなことはなくなり、おにぎりそのものが意識から消えていた。
1970年頃、大学に入って繁華街の安い飯屋のおにぎりが三角で、関西から来たサークルの先輩が違和感があるといっていた。俵型でないと美味しくない、というのであった。試しに自分でおにぎりを作ってみると、どちらも簡単にできたが、どちらかというと俵型のほうが整形しやすく、型崩れもしなかったことを記憶している。
学生の頃は気にならなかったが、就職してから仕事帰りにお酒を飲むと、おにぎりが食べたくなった。居酒屋でもスーパーでもコンビニでも三角のおにぎりばかりでそれが当然のようにも感じていたが、あるとき、三角のおにぎりは両手で食べないと崩れて落としてしまうことに気がついた。
俵型だと片手ですんなりと口に入り、半分ずつたべられるし、型崩れしにくく落とすこともないのである。しかも作るときに、海苔がキレイに巻ける。三角だと海苔が重なる部分ができる。これはもったいない。
東北で育った妻にそのことを聞くと、三角のおにぎりしか記憶にないという。
今、人に好みを聞かれると私は断固として俵型が正しいおにぎりの形だと、言い張るかもしれない。「作る側の合理性も大切だが、食する側の食べやすさを大切に」してもらいたい。作る側の論理だけで、「新しいおにぎり文化の創出」などといわれると嫌味のひとつもいいたくなる。またそんな論理に騙されないようにしたいものである。
「軍は住民を守らない」ということばはよく聞く。沖縄戦では日本軍は住民を守らないどころか、住民を盾にしたり、集団自決を強いたり、住民とともに洞窟に逃げ込み住民を洞窟から追い出した事例が数多く証言されている。
追いつめられた軍だけではなく、圧倒的な力を背景に攻め込んできた米軍もまた、無抵抗で逃げる住民を銃撃をしている。
本日も退職者会ニュースではさまざまな集会や講演会での話の要約を盛り込んだ。記事の訂正の指摘ではその部分の補足をすべきだという指摘もあった。限られた字数の記事にそれらを盛り込むことと、写真を多用して視覚に訴える紙面構成のせめぎ合いで苦労する。毎回のことである。
今回の記事では「軍は住民を守らない」というのは沖縄だけではなく、今回のウクライナへのロシアの軍事侵攻でも繰り返されたことを付け加えた。攻め込んだロシアは敗北過程では、住民を人間の盾として利用していることが報道されている。「戦争」は人を野生の生存競争の中に放り込む。人は人を盾にしても逃げようとする。動物の本能の行動である。
ロシア・ウクライナ戦争は現代の戦争の縮図である。逃げようもないミサイルによる市民への直接的攻撃ダムや発電所・原発への攻撃といった間接的な市民への攻撃、無人兵器による生身の人間殺戮。直接生身の人間が見えない遠距離からの攻撃は生身の人間を目の当たりにした躊躇いや罪悪感から目をそらせて感覚をマヒさせる。
本当は、「戦争は市民を救うことはあり得ない」「軍や力を背景にした政治は市民を犠牲にすることを厭わない」という表現すらしたかったが、それは私の思い。そのようなところまで話を進めた講演者はいなかったので、断念。
習近平の政権が台湾を侵略すると危機を煽る人がいる。中には煽り運転のように執拗に煽り続けて沖縄の日米の基地の強化を煽る人がいる。戦場になるのは沖縄の人々の住む地である。犠牲になるのは沖縄に住む人々である。煽る人ではない。煽る人が、沖縄にたまたまいたとしても、たぶん一番先に逃げ出す人である、と私は思っている。
日本列島全体に戦火が及ぶようになれば、基地と原発や火力発電所、ダム、ガス貯蔵施設のある地は真っ先に攻撃を受ける。いくらJアラートが鳴っても身は守れない。80年前近く前の空襲警報ほどの役にも立たない。それほどのスピードでミサイルは飛んでくる。放射能は防げることはできない。一時的に防いでも食料になるものが汚染されてしまう。ライフラインが破壊されて市民生活がマヒする。
まずは戦争にならないよう、どこまでも冷静で理性的な政治家を選ぶことからしか第一歩は始まらない。
抵抗の仕方はその国の成り立ちや歴史などに大きく左右される。今の私に、ウクライナやビルマや香港などの世界中の人々に「こうすべきだ」とお説教をいうことはできない。それぞれの国の人々の抵抗の仕方を見つめることと、いわゆる人道支援を行うことしかできない。
私の頭に常にあるのは、1967~68年にかけてのチェコのプラハの春の抵抗である。四半世紀近く経ってからのビロード革命を準備した、かの地の人々の抵抗である。
戦争の体験はおおいに語り継がれるべきである。同時に権力を振り回す政権への抵抗の歴史もまたおおいに語り継がれるべきである。それが私には本当の救いのような気がする。