昨晩に続いてチャイコフスキーの交響曲第4番のフィナーレを聴いている。朝聴くには少々音の壁が圧倒的である。しかも雨が今にも降り出しそうな陰鬱で湿気の多い午前中の雰囲気にはちょっとそぐわなかったかもしれない。
同じ管弦楽曲でもこのような天候の時はシベリウスの交響曲のほうが私の気分に沿った曲かもしれなかった。しかしこれは結果論。
しかしこのチャイコフスキーの曲は、どうしてこんなにエネルギッシュなのだろう。昔は、同じ感想を抱きながら、充実した気分に浸ることが出来た。しかし今は、このエネルギーの前に押しつぶされてしまうある種の恐怖を感じてしまう。歳の所為だろうか。
どうしてこんなにエネルギッシュに音の洪水を楽譜にしたためたのだろう。特に後半の息を継ぐ暇もないほどの緊張を演奏者に強いなくてはいけなかったのか。その緊張は聴衆にも直に伝わる。ふとそんな疑問を感じる。
チャイコフスキーの音楽は、伸びやかなメロディーで人をひきつける場合も多く、ファンは多い。一方で交響曲第5番のように重々しいものも多いが、内省的で聴衆に静かな思考を促すものも多い。そしてこの曲のように荒々しい嵐のように締めくくる場合もある。時には曲が聴衆の前で空回りしているように私には聴こえてしまうこともある。
どれを選ぶかは聴く人間の気分によるが、同時に作曲家の内面は謎めいてくる。