いつ購入したかは記憶にはないが、まったく読んだことのなかった岩波文庫の「漱石日記」(平岡敏夫編)をたまたま本棚から取り出した。手に取ったときに偶然に開いた頁は、明治45(1912)年7月20日(土)。明治天皇の重患の報を受けての日記である。
「天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。川開きの催し差留(さしとどめ)られたり。天子いまだ崩ぜず。川開を禁ずるの必要なし。細民これがために困るもの多からん。当局者の没常識驚ろくべし。演劇その他の興業もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。当局これに対して干渉がましき事をなすべきにあらず。・・・新聞を見れば彼ら異口同音に曰く、都下‥火の消えたる如しと。妄(みだ)りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢いで日の消えたるが如しと吹聴す。天子の徳を頌する所以にあらず。かえってその徳を傷くる仕業也。」
明治天皇は7月30日(火)に亡くなり、同日大正天皇が践祚。
1989年1月、昭和天皇が亡くなった。その前年の年末に重篤となり長期間の「歌舞音曲自粛」という名の半強制的な措置を目の当たりにした私は、77年以上前に明治天皇が亡くなった時に夏目漱石がこのような文章を日記とはいえ記していたことは新鮮であった。同時にいかにも漱石らしい一文と思えた。
日記を遡ると同年の6月10日(月)には次のように記している。
「行啓能を見る。山県・松方の元老、乃木さんなどあり。‥陪覧の臣民どもはまことに無識無礼なり。(一)見世物の如く陛下・殿下の顔をじろじろ見る。(二)演能中もしくは演能後妄に席を離れて雑踏を醸す。‥(四)陛下・殿下を口にすれば馬鹿丁寧な言葉さえ用いれば済むと思えり。‥馬鹿げた沙汰なり。」
明治の「元老」などと言われる為政者こそが礼儀を知らない、と虚仮にしている。
明治の欽定憲法のときよりも昭和の戦後憲法のときのほうが、天皇制に対する為政者の思考が近代以前の姿勢に後退しているように思えた。何とも情けないものである。