夜は、伊藤博釋注の集英社文庫版万葉集の巻第三の挽歌群の解説を、中西進の「万葉の時代と風土」の「万葉の発想」と比較しながら読んだ。
また、日本書紀(岩波文庫版)の巻第三十の持統天皇称制前紀、皇子大津謀反の個所、同じく第第二十六の斉明紀の有馬皇子の事件も合わせて目を通した。
「有馬(皇子)や大津(皇子)には大きな事件が横ち割っている。しかしその歌の中には歴史が顕現してこない。ここにこそ、万葉集の根幹とする立場があり、その表現の形式は『書紀』とも伝・漢詩とも違うものだったといえよう。‥万葉集の曲想を正しく発想するためには、以上のように史と詩とを区別してみることが必要だと私は考えるのである。」(「万葉の発想」)
「和歌はもっとも生活に即した表現である。この第一義を和歌が離れることはない‥。和歌の特性は『古今集』よりも『新古今集』よりも万葉集により強く生きている‥。生活性とは、和歌が時代の中にあること、それでいて個別の感情を豊かに堪えていることを意味する。‥生活性こそが和歌の原点で、これが個別的な時事との緊張関係を生む‥。」(「万葉と時事」)
中西進の文章は、キーセンテンスを見つけるのが難しい。だから難解なのだろうと思う。違約してまとめるほうが伝わりやすいかもしれないが、それは危険でもあり、避けることにした。畢竟引用箇所に目を通しても、それだけでは意を汲めないと思うが、これはあくまでも私の備忘録なので勘弁してほしい。