Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

加藤千世子の句

2019年07月10日 22時46分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★何か負ふやうに身を伏せ夫昼寝     加藤千世子
★怒ることに追はれて夫に夏痩なし    加藤千世子

 第1句、季語は「昼寝」で夏。夫である楸邨の昼寝が何か重いものを背負って疲れているように見えるというのである。最近のネットで以下の解説が出ている。
「夫の言動から推して、‥痛ましく思いながらも、しかしどうしてやることもできない。明るい夏の午後に、ふっと兆した漠然たる不安の影。この対比が、よく生きている。一つ家に暮らす妻ならではの一句だ。(この句とは違い)その様子は多くカリカチュアライズされて妻の句に残されている。」(清水哲男)
 第2句、これもまた加藤千世子の夫加藤楸邨をよく詠んだ句。前句とは正反対の句である。
「妻ならではの句だけれど、距離の置き方が(前の句とは)大違いだ。ああまた例によって怒ってるなと、微笑すら浮かべている。」(清水哲男)

★紅の花枯れし赤さはもうあせず     加藤知世子

 加藤千世子は何も夫楸邨を読んだ句ばかりではない。ネットで調べると、上記のような句もある。
「紅の花が夏に枝の先に黄色の花をつけ、しだいに赤色に変化してゆく。赤色になった紅の花はやがて枯れてしまうが、枯れてしまった赤さはもう色褪せることはないと作者は事実を言う。これは事実だが作者の思いに聞こえる。どういう思いか。それは命が失われてもその赤が永遠に遺されたという感動の吐露である。花の色はそのまま人間の生き方の比喩になる。眼前の事物を凝視することから入って、人生の寓意に転ずる。これは「人間探求派」と呼称された俳人たち、特に加藤楸邨、中村草田男の手法について言われてきたことだ。「人間探求派」の出現の意義は反花鳥諷詠、反新興俳句にあった。だから従来の俳趣味に依らず、近代詩的モダニズムに依らずの新しいテーマとして、写実を超えたところに「文学的」寓意を意図したのだった。加藤楸邨理解としてのこの句に盛られた寓意は手法として納得できる。一方でこの知世子句のような地点(視覚的で瞬間的な事物との接触)の先に何があるのか、そこを探ることが「人間探求」の新しい歴史的意味を拓いていくことになる。」(今井 聖)

 なかなか難しい指摘であるが、惹かれる指摘である。



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