「九相図をよむ」の第6章「「九相詩絵巻」をよむ 漢詩・和歌と九相図の融合」、第7章「江戸の出開帳と九相図」を読み終えた。
この二つの章は戦国期から江戸時代にかけての九相図についての解析に当てられる。
室町時代後半、蘇軾(蘇東坡)に仮託される九相詩と、九相を詠んだ詞書を持つ「九相詩絵巻」が成立する。詩と和歌は長いので省略するが、この詩と和歌によって九相図が新たな展開をみせるという。
土佐派の描く「九相詩絵巻」(九州国立博物館蔵)では、「みずみずしい動植物、透明感のある霞や山並みなど抒情性溢れる優美な画趣をそなえる。これらの自然景と調和的に描くことで生々しさが緩和されている。」
狩野派の描いた「九相詩絵巻」(大念佛寺蔵)では、最後の図に男性貴族が描かれ、「九相図をめぐる視線の有していた主客の曖昧さが払拭され、見るもの(男性)と見られるもの(女性の死体)へと固定化されていく」と記述されている。ここは私にまだよく理解できない唐突感のある個所である。
続けて「画中に描かれた男性を漢詩と和歌の詠み手とみなすことで、詞書に記された詩歌の世界観が一貫した物語性を帯びてくる。」とあるが、ここは私は納得できる結論である。
さらにつづけて「女性の墓を見て嘆く男性に特定の人物像を与えることもできよう。‥小野小町のどくろを見て和歌を詠じた在原業平を想起させる」という説を掲げると同時に、「嘆く男性の姿は奥書の人物の命日に当たる可能性もある」としている。私は在原業平に仮託された男性が身の回りの女性を悼んで作成したものという理解が妥当と感じた。
九相図が仏教上の教義の解説から、より身近な死を痛むものへと変貌していると思えた。
作者は江戸初期の狩野永納(京狩野三代目)の「九相詩絵巻」(佛道寺蔵)の解析を通して「描きこまれた男性の姿には、歌仙絵になぞらえた見立絵としの側面が強い。‥見立てという行為は、幅広い知識と教養の共有があってはじめて成立する。」「江戸時代を通じて‥九相図への社会的関心が高まる中で、出版の世界にも進出していくことになる。17世紀以降、絵入りの版本として多種多様な「九相図」が刊行され、受容層が拡大していった。‥九相図は誰もが知る馴染みの図像となった‥。」
「近世寺院において、九相図は黙して見るものではなく、名調子の絵解き説法とともに楽しみつつ接するものであった。そこには、九相図をめぐる新旧の物語が混然一体となって会衆の眼と耳を刺激し、生と死、肉体の不浄、若さや美貌の無常、映画と落剝など、人生の諸相を仮想体験する場が出現していたのである。」