Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「万葉の時代と風土」から「万葉集における古代朝鮮」

2021年11月18日 08時20分05秒 | 読書

   

 一昨日読み終わった「万葉集における古代朝鮮」の項からいくつか引用する。少し長いが引用しておきたい。

「万葉集の中に古代朝鮮の影はけっしてとぼしくない。「から」(韓・漢)とか「こま」(高麗)、くれ」(呉)を関したことばが地名や物名の中に多いことはもちろん、さらには風俗そのものが古代朝鮮との関係の中ででき上がっていたりして、万葉の時代(七、八世紀)には朝鮮を無視しては何事も理解できないほどである。‥日本人の舶来品志向は、どうも千年前から変わっていないらしい。朝鮮からの渡来者の風俗は価値あるものとして万葉人の目を引いている。」
「そもそも万葉集の歌を出発せしめたものが、古代朝鮮からの衝撃力であった。‥あの白村江の戦がなければ、万葉集もなかったかもしれない。‥幸いにして唐の来襲はなかった。その結果、百済の文化をひきつぐという形で、歴史が流れていった。その中に誕生したのが万葉集である。‥先立って、和歌は歌謡からの自立をしはじめていたが、その自然発生的な進展に対して、これを飛躍的に成長させたものが、天智朝のこのできごとであった。」
「大友皇子の漢詩を生んだ天智朝を代表する万葉歌人が、額田王という女流歌人だということはいうまでもないだろう。ところが、この額田王も渡来系の人だと思われる。」
「“紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(Ⅰ21)”この時蒲生野には紫草が栽培され、その中に(額田)王が立っていたことは事実である。‥紫草は紫色をえる材料としてうえられたもので、この技術は朝鮮からの渡来者によってもたらされた。それなりに貴重な色で、これが服色として最高の物とされ、後々禁色として最高の許され、後々禁色とされる理由もまた、ここにある。」
「万葉集というやまとことば圏では他と紛れるばかりだが、もう一方の漢字圏、「懐風藻」の世界では八世紀になっても渡来系の人々が主たる活躍者であることしは、そのことにおいて看過しがたい事柄である。」

 こういう指摘は断片的に幾度も聴いているが、まとめてくれたのはとてもありがたい。



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