まずは、本書の後ろのほうにおさめられている詩を二つ。
砂漠の夕べの祈り
(前略)
世界とは、ひとがそこを横切ってゆく
透きとおったひろがりのことである。
ひとは結局、できることしかできない。
あなたはじぶんにできることをした。
あなたは祈った。
夜の森の道
(前略)
森の中で、アオバズクが目を光らせて、
橡(くぬぎ)の朽ち木に群がるオオワクガタを嚙み殺す、
夏の夜。物語の長さだけ長い、冬の夜。
夜の青さのなかに、いのちあるものらの影が
黒い闇をつくって、浮かんでいる。
ものみなすべては、影だ。
(中略)
神は、ひとをまっすぐにつくったが、
ひとは、複雑な考え方をしたがるのだ。
切っ先のように、ひとの、
存在に突きつけられている、
不思議な空しさ。
何のためでもなく、
ただ、消え失せるためだ。
ひとは生きて、存在なかったように消え失せる。
あたかもこの世に生まれでなかったように。
前のほうに戻って、マルクスの草稿を詠んだ詩を引用してみる。私も学生時代にとても惹かれたマルクスの言葉である。
草稿のままの人生
本棚のいちばん奥に押し込んだ
一冊の古い本のページのあいだに、
四十年前に一人、熱して読んだことばが
のこっている。大いなる鬚の思想家が
世界に差し出したい問いが、草稿のままに
遺された小さな本。――たとえば。
なぜわれわれは、労働の外で
はじめて自己のもとにあると感じ、
そして、労働の中では自己の外にあると
感じるのか。労働をしていないときに
安らぎ、なぜ労働をしているときに
安らぎをもてないのか。――あるいは。
人間を人間として、また、世界にたいする
人間の関係を人間的な関係として前提としたまえ。
そうするときみは愛をただ愛とだけ、
信頼をただ信頼とだけ、交換できるのだ。
もしきみが相手の愛を呼びおこすことなく
愛するなら、すなわち、きみの愛が愛として
相手の愛を生みださなければ、そのとき
きみの愛は無力であり、一つの不幸である。――
或る日、或る人の、静かな訃に接した。
小さな記事は何も伝えない。しかし、かつて
大いなる鬚の思想家の草稿のことばを、
腐心の日本語にうつしたのはその人だった。
不確かな希望を刻したことばの一つ一つを思い出す。
束の間に人生は過ぎ去るが、ことばはとどまる、
ひとの心のいちばん奥の本棚に。
このマルクスの言葉が、なんという表題の文章に書かれていたか、私は今は文庫本も手放してしまったのでわからない。また訳者がだれだったかも忘れてしまった。今度残っている前週から探す時間があれば探してみたい。ただ私の記憶ではここに引用されているだけの短い文章だった気がする。