午後のウォーキングから帰って聴いていた曲はバッハの管弦楽組曲全4曲。トン・コープマン指揮のアムステルダム・バロック管弦楽団、第2番のフルートソロはウィルベルト・ハーツェルトと表記されている。録音は1997年。発売年月日の記載がないので、いつ頃購入したかはわからない。LPレコードも持っていたが、誰の演奏で、いつの演奏だったか、覚えていない。
この4曲はいづれも祝祭のための曲のようで、明るく屈託のない曲集である。ひねくれ者の私はどうもこのあまりの明るさ、屈託のなさが性に合わないというのであろうか、敬遠している。
不思議というか、この曲を聴くたびに条件反射のように、ヨハン・セバスチャン・バッハは1685年に生まれ、1750年に亡くなっていることが思い出される。どうしてそのようなことを思い浮かべるようになったのか、思い出せないのだが。
ヨーロッパは絶対主義の時代を迎え、日本で言えば、江戸時代の初期、三代将軍家光は1651年に亡くなり、1751年に第7代将軍吉宗が亡くなっている。奥の細道(1694)、赤穂浪士の討ち入り(1703)や、ロシア船が安房沖に来航(1739)と幕藩体制が軋みを見せ始め、ヨーロッパの圧力が迫りつつあった時期である。国学が興隆し、近松門左衛門が活躍した時代でもある。
特筆すべきは、吉宗は1726年にオランダ人の演奏する西洋音楽を聴いている。果たしてプロテスタントの国、オランダ人の演奏した曲の中に、カトリックのバッハの音楽は含まれていたのであろうか。興味は尽きない。
この江戸時代の最中に、バッハのこの管弦楽組曲のような音楽がヨーロッパで演奏されていたと思うと、政治史だけでヨーロッパを追っていくのとは違う世界が見えてくるような気がする。
進んだヨーロッパ、遅れた東洋・日本という図式では語ることが出来ない、文化的な同時代性、鎖国という体制をとっても流入してくる文化や人の流れ、というものに敏感になる。
オランダ・清・李氏朝鮮、蝦夷でのロシアとの接触は、大きなインパクトを与え続けていたと思う。そういう歴史のアプローチに興味がある。絵画についてはさまざまな試みがなされている。音楽については目にしない。