Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「万葉の歌びとたち」

2022年03月19日 21時53分58秒 | 読書

      

 じっくりと楽しんだ「万葉読本Ⅱ 万葉の歌びとたち」(中西進、角川選書)を読み終わった。読み終わった、という感覚よりも「読み終わってしまった」という少しがっかりした気分である。中西流万葉の世界に遊んでいたのに、万葉読本Ⅱまでが終わってしまった。残るは万葉読本Ⅲの1冊である。
 この万葉読本Ⅱは、女流歌人と柿本人麻呂と山上憶良、不遇であった「王(おおきみ)」たち、そして大伴家持を取り上げている。家持については、私は特に興味がある。
 最後の今回は第Ⅳ章とあとがきから。取りあえずいつものとおり覚書として引用。

「家持には「ひとり」が鬱情と結びつく図式があるようで‥連帯する人間存在を欠いた孤独をいっていると見える。‥身辺にみちようとしてまだ平静を保っている親しき人々の凋落のけはいを、敏感に感じとっていた詩人の魂がある。‥詩人には予測される生命感といったものがあるのではないか。‥そうしたことが可能だったのは、正と負の世界をともに見、想念を風景の中に見てしまう彼の詩心があったからである。‥かれの詩性をしてここに到達せしめたものは、彼をとりまく政治情況であった。もっと正しくいえば政治情況の中に感じられる人間関係であった。それは溶暗のほのぐらさの中にあったのだが。」(「大伴家持(二) ――勝宝五年の春」)

「私にとって万葉集の面白さの大半は、人間の面白さだといえる。‥万葉集に限らずすべての文学の面白さはそこに表されいる人物や作者という人間への関心から発している‥。投じよう人物にしても作者の人間性にしても、あまりとりつくろっていない方がいいし、いささか出来の悪い方が、一層面白い。‥やはり人間は愚かしい本姓をさらしているのがいい。こちらも安心して愚かしさをさらけ出していけるからである。」
「ことに万葉集は、多様な人たちが作者として登場する。その多様さとは万葉集の時代が遥かな古代の伝統を宿しながら急激に文化が発達していったという背景に培われたものでもあるし、万葉集の作者たちを画一化する美学的規範を彼らが持っていなかった‥。」(あとがき)

 次は最後の「万葉読本Ⅲ 万葉のことばと四季」であるが、もう少し先に読み始めたい。次に読む本は今晩中に決めたい。



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