こんな詩がある。石牟礼道子と藤原新也の対談「なみだふるはな」(河出文庫)をたまたま書店で見つけた。条件反射のようにその場ですぐに購入。
まだあの大震災が起きたばかりで、状況も正確には把握できない厳しい状況下の2011年6月13日~15日までの3日間の両者の対談を収めてある。その巻頭に二人の文章が載っている。
解説は伊藤比呂美の「死を想う」。
花を奉る 石牟礼道子
春風萌(きざ)すといども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累(かさ)なりて 三界いわん方なく昏し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘(いざな)わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世なる仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして
世々の悲願をあらわせり
この一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花とはし 未灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然(しか)して空しとは云わず
現世はいよいよ 地獄とやいわん
虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す
二〇一一年四月 大震災の翌月に
藤原新也は巻頭に「ふたつの歴史にかかる橋」を書いている。
ふたつの歴史にかかる橋 藤原新也
一九五〇年代を発端とするミナマタ。
そして二〇一一年のフクシマ。
このふたつの東西の土地は六十年の時を経ていま、共震している。
効率を先んじ安全を怠った企業運営の破綻。
その結果、長年に渡って危機にさらされた普通の人々の生活と命。
情報を隠蔽し、
さらに国民を危機に陥れた政府と企業。
罪なき動物たちの犠牲。
母なる海の汚染。
歴史は繰り返す、という言葉をこれほど鮮明に再現した例は稀有だろう。
そのふたつの歴史にかかる橋をミナマタの証言者、
石牟礼道子さんと渡ってみたいと思った。
解説「死を想う」で伊藤比呂美は、
「石牟礼さんは、聖者というよりは詩人である。しかしながら、幻影(俗)と覚醒(聖)、そのふたつの岸にかかる細い強靭な綱をしっかりとした足取りで渡って歩きながら正気を保っていたのが石牟礼さんだったのかなと思う。そして藤原さんもまた、ここでは石牟礼さんに伴奏しながら、八〇年前のリアルから二〇一一年のリアルに、二つの岸にかかる命綱を渡り歩きながら正気を保っている聖者みたいな存在に思えた」
と記している。
肝心の二人の対談にはまだ眼をとおしていないが、早く目をとおしたい本である。