ちょうど風呂から出て、寝巻に着替えばかりに揺れ始めた。横浜でも震度4だったが、もっと揺れたような気がする。揺れている時間も長かった。
関東でも、鉄道はほとんど点検のために運転見合わせとなっている模様。高層マンションでは停電。東電の発表では200万戸以上が関東で停電しているとのこと。エレベーター内の閉じ込め、あるいは長周期地震動による家具の転倒などの事故も考えられる。
すぐに11年前の東日本大震災を思い出した。余震は今のところ感じないし、11年前に比べれば、揺れは小さかったのかもしれない。しかし震度5、震度6がこれほど広範囲なので被害は必ず出ている。
夜が明けないと被害の全貌は明らかにならない。被害の小さいことを祈るばかりである。
東北在住の友人が心配である。
クラシック音楽は全く苦手だが「展覧会の絵」なる曲名だけは、いまだに記憶の底にある。たぶん小学校か中学校のころに音楽の授業で聞いた事があるせいだろうが、琴線に響く何かがあったのだろう。
いま、そのキエフの大門「黄金の門」が破壊されようとしている。1240年にモンゴル帝国の軍勢によって破壊されたが、今度はプーチン帝国によってふたたび廃墟にされようとしているのだ。
ウクライナを我が物にしようとロシアによる侵攻が続く中、ロシアの作曲家ムソルグスキー(1839~81年)の組曲「展覧会の絵」の終曲を構成する曲の一つ、「キエフの大門」が注目されている。
攻撃を受けているウクライナの首都の名が刻まれた楽曲には、作曲家が友人の死を悼んで作ったゆかりがあり、音楽家が戦争の終結や鎮魂の思いを込めて演奏したり、SNSなどで発信したりしているという。(デジタル編集部・谷口愛佳)
ウクライナへの侵攻は愚昧なのか賢明なのか、はたまた狂気の沙汰なのか。賢しらな人間の営為などとは全く別のところで生き抜いてきたプーチンは、したたかさを垣間見ることが出来る今世紀最大の似非人格者だろう。
ブログ、『自己コントロール』(2022.2.25付)を拝読した際、「おたおたしない人間には二種類ある」と非常に興味のあることが書いてあった。「退職してから大半のことを自分でしなくてはならなくなって、一人何役もの人格を演じている自分を客観的立場から見つめたら、自己分裂している自分に気がついた」という。まことにもって面白い。実に面白い。
私自身も、己を振り返ってみるに諸々ありすぎて、まさに「汗顔の至り」でストレスが堪るのもさもありなんだ。
ま、私のことはさておいて、こたびのプーチンの所業には自己分裂している自分に気がつかず、したがって「自己コントロール」が出来ないでしまっているといえる。そんな分裂しているプーチン自身はどう総括するのか。
スターリンは腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。元々人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちなパラノイアが加わったことにより、猜疑心が極限までに加速したのだ。
プーチンもまたかつての諜報員としての経験が、プーチンの世界観の形成に一役買っているのだろう。あるいは元々強かった疑心暗鬼、猜疑心が病的になったのではないか。この性向が晩年に近づくほど強まり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされ続け、スターリンやヒットラーの歩いてきた道を、プーチンもまた、まっしぐらに突き進んでしまったのだ。
“鳩”を選ぶのか“核”を手にするのか全人類が固唾を見守っている。
(阿修羅)
核を手にしたい輩が日本にもいますね。元〇〇とその追随者ども。
いまウクライナ支援で盛り上がっている人の中には「反露」ということだけの人もいます。問題は大国が小国を飲み込もうとしていること。国の論理ではなく、「民」の論理で対抗しないと、殺戮の連鎖から逃れられなくなります。
私は1968年の「プラハの春」の抵抗を思い出しました。あのように抵抗したい。あのように闘いたいです。「戦い」ではなく「闘い」。といっても抵抗の仕方を決めるのは現地の人々の意向も無視できない。ウクライナのこれまでの歴史の複雑さ、押しつぶされてきた歴史的背景もあります。
理想主義といわれようと、声を上げることしかできない、もどかしいですね。
そしてナショナリズムと、国家の論理の横行を使用することの困難さの前にたじろいでしまいます。