本日の講座は「アジアの視点 その6」の最終講義。講師は斎藤勁法政大学客員教授。2011年11月から始まった日中韓三国の政府合意で始まった「日・中・韓キャンパスアジア・プログラム」事業についての説明を受けた。
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齋藤勁教授は国会議員時代内閣官房副長官としてこの事業に携わった経緯もあり、現在もかかわりを持っているとのこと。
日中韓の政治的なギクシャクにも関わらずこの事業の継続の重要性は理解できる。これまでの講座の中で云われてきたことは、中国・韓国の留学生の動向は日本を超えてアメリカ指向が中心となりつつあること、日本の大学生の国外留学生は大幅に減少しており中国・韓国や他のアジアの国々と比べて国外留学の指向が極めて低下していること、などが語られていた。
今回の事業の成果とは別に私はこの事業への応募した大学は国立大学が圧倒的に多く、私学では有名私立大学を除いて名が載っていないのは少々意外な気がした。同時に私の卒業した仙台に存在する国立大学名を見て、とても違和感を持った。
今年になってブログにも掲載したが、魯迅の記念展示についてこの大学が、魯迅を迎えた当時の都合の悪いことには一切触れず、「魯迅が学んだ大学」ということだけを「誇り」として扱っている。「なぜ魯迅が医学への志を捨てたか」について口を閉ざして「無かった」ことにしている点が私は気に入らなかった。このことについては8月25、26、26、28日の4回にわたって長々と書かせてもらった。
日中韓いづれの国の大学も近・現代史の中で政治とは無関係では存在し得なかった。それが3つの国のいづれにおいても、どこかで負の歴史として残っていると思う。これをキチンと捉え返してほしいと私は願っている。今回の事業も学生の交流をとおしてこれらに向き合ういい機会である。
だが、かの大学はそのような負の歴史を未だに「隠しとおし」ている。大学という組織自体が真摯に歴史に向き合う姿勢を示さなければ、この事業の趣旨を生かすことはできないと直感している。そんな大学がプロジェクトに参加しようとしていることに強い違和感を持ってしまった。
事業自体に異存はない。関わろうとする大学にも、参加しようとする学生にも異存はない。しかし参加しようとする大学の姿勢が問われていると思う。事業に参加した学生は、政府の動向に左右されずに底辺からの文化交流に携わってほしい。それは経済・芸術・学術さまざまな面で発揮してもらいたいと思う。同時に「歴史に頬被り」し続ける大学にも批判の目を向けてもらいたいと思った。それが未来志向ということなのではないだろうか。
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齋藤勁教授は国会議員時代内閣官房副長官としてこの事業に携わった経緯もあり、現在もかかわりを持っているとのこと。
日中韓の政治的なギクシャクにも関わらずこの事業の継続の重要性は理解できる。これまでの講座の中で云われてきたことは、中国・韓国の留学生の動向は日本を超えてアメリカ指向が中心となりつつあること、日本の大学生の国外留学生は大幅に減少しており中国・韓国や他のアジアの国々と比べて国外留学の指向が極めて低下していること、などが語られていた。
今回の事業の成果とは別に私はこの事業への応募した大学は国立大学が圧倒的に多く、私学では有名私立大学を除いて名が載っていないのは少々意外な気がした。同時に私の卒業した仙台に存在する国立大学名を見て、とても違和感を持った。
今年になってブログにも掲載したが、魯迅の記念展示についてこの大学が、魯迅を迎えた当時の都合の悪いことには一切触れず、「魯迅が学んだ大学」ということだけを「誇り」として扱っている。「なぜ魯迅が医学への志を捨てたか」について口を閉ざして「無かった」ことにしている点が私は気に入らなかった。このことについては8月25、26、26、28日の4回にわたって長々と書かせてもらった。
日中韓いづれの国の大学も近・現代史の中で政治とは無関係では存在し得なかった。それが3つの国のいづれにおいても、どこかで負の歴史として残っていると思う。これをキチンと捉え返してほしいと私は願っている。今回の事業も学生の交流をとおしてこれらに向き合ういい機会である。
だが、かの大学はそのような負の歴史を未だに「隠しとおし」ている。大学という組織自体が真摯に歴史に向き合う姿勢を示さなければ、この事業の趣旨を生かすことはできないと直感している。そんな大学がプロジェクトに参加しようとしていることに強い違和感を持ってしまった。
事業自体に異存はない。関わろうとする大学にも、参加しようとする学生にも異存はない。しかし参加しようとする大学の姿勢が問われていると思う。事業に参加した学生は、政府の動向に左右されずに底辺からの文化交流に携わってほしい。それは経済・芸術・学術さまざまな面で発揮してもらいたいと思う。同時に「歴史に頬被り」し続ける大学にも批判の目を向けてもらいたいと思った。それが未来志向ということなのではないだろうか。