Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「この道」(古井由吉) その3

2022年04月15日 21時10分23秒 | 読書

 雨の合間に出かけていつもの喫茶店で読書タイムとコーヒータイム。横浜駅は年金支給日ということらしく、銀行ではATМコーナーの前に長い列が出来ていた。関係のない私は素通り。夕方からは本降り、その中をバスにて帰宅。

   

 久しぶりに古井由吉の晩年の短編集「この道」を開いた。本日は二つ目の「その日のうちに」を読み終え、「野の末」を読み始めた。
 少しずつ難解な文章に馴れてきている。短編集というよりも、死を巡る断章、死の影を引きずった病や老いとの親和性、というのがあたっているような連作短編に思える。

「いよいよ老耄のおとづれか。老耄というのは、時間にせよ空間にせよすべての差異が、隔たったものがたやすく融合する、そんな境に入ることではないのか。まわりの者はそれを不気味な分裂と見て驚き、怖れさえするが、本人にとっては平明な実相であり、ただ人に伝えるすべもない。」(その日のうちに)

「人の生涯は所詮、死者から死者へのつらなりの、その先端にしばしあるだけのことであり、域ながら年々その列へ組みこまれているのではないか、‥。」(野の末)
 


宿題ほぼ完了

2022年04月15日 19時40分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 退職者会の月曜の会議で与えられた宿題はほぼ8割終了。明日の昼前に横浜駅で待ち合わせて、他の役員と内容の点検を行う予定。朝10時までには出来ればいいのだが、出来れば今晩中に完成してしまいたい。
 宿題というのは、来週の土曜日に開かれる退職者会の総会までに、この1年間の活動を写真で見やすいアルバムを作ること。議案書の経過報告は文書であり、これは事務局長が作成して正式の議案になるが、A4版で4ページのアルバムを参考に配布しようというものである。
 これまで撮り貯めた1年分の写真から37枚を選び、各写真に1行の説明をつけるだけであるが、凝り性の私は配置に凝ってしまう。

 コロナ禍であまり活動は出来なかったといっても、あらためて整理してみると、ずいぶんと取り組みやイベントがあった。こんなに元気な退職者会というのは、加入した当初は想定していなかった。現役時代よりも私自身も含めて元気なのかもしれない。悪いことではないと思いたい。


雨が降り出した

2022年04月14日 23時06分15秒 | 天気と自然災害

 夕方までは雨はほとんど降っていなかった。20時以降次第に雨の音が聞こえてくるようになり、現在は時間雨量で1ミリ程度は降っているようだ。気象庁やレインアイよこはまの画面では降っていないことになっている。これはちょいと困ったものである。
 雨は少しずつだが強くなっている。

 明日は終日雨といっている。さらに気温が下がるようだ。明日は特に予定がないので、退職者会の11日の会議での宿題を片づける予定。
 しばらくは万葉集や中西進の本からは遠ざかることになる。
 


読了「万葉のことばと四季」

2022年04月14日 22時08分21秒 | 読書

      

 「万葉読本Ⅲ 万葉のことばと四季」(中西進、角川選書)を読み終わった。「もう少し時間をかけてじっくり楽しみたかった、残念ながら読み終わってしまった」という思いもある。

 最後の章「万葉歌人の系譜」の内、「柿本人麻呂」、「山部赤人」、「山上憶良」、「旅人と家持」、「無名者たち」が昨日から本日にかけて読んだ部分。

「歴史はいうまでもなく過去への省察だから、人麻呂が人間の死に対して敏感であったのは、当然のことである。人麻呂は死の詩人とよぶことができるほどに、彼は人の死を悲しむ歌において真骨頂を極めた。‥人麻呂は人間の生と死とに深くかかわっていった。この深入りのゆえに、切れはもっとも本質的な詩人たりえた‥。」(「柿本人麻呂)」

「赤人はけっして人麻呂のエピゴーネンにすぎないのではない。正しく伝統を継承しながら、これを構造体に再構成することによって和歌を発展せしめたのだといえるだろう。人麻呂が情念的なら、赤人は視覚化して風景化して物をみようとした。もちろんその場合現象的・即物的に物を見るのではない。‥赤人が整然とした構成をもって物を記述することを、私は彼が平城京という条坊制の都城に生活した人間だったことと密接に関係があると考える。作られた生活空間――自然そのままの原野にいるのではない、区画された都市を生活空間とする歌人であってはじめて、かかる歌が誕生しえた‥。」(「山部赤人」)
「人間の影が顎いている自然が赤人の自然である。風景をあまりにも抽象化してしまって、そのゆえにできた空虚にたえがたくなった詩人の孤独が、しきりに求める人間の影だったのではないか。抱かるべき自然を失った赤人は孤独な詩人であった。」(「山部赤人」)

「もはや集団としては行動しきれなかった時代の、個別化の極限状況に立たされた人間は、組織に依存して「士」としての安心立命を求めたはずである。個別的な名声を求めるという自己矛盾の中に引き裂かれたのが、憶良たち天平の歌人であった。その上に憶良が渡来人だとすると、なおのこと大陸的教養は深く身についたことと思われる。」(「山上憶良」)

「旅人が(酒・梅・萩・雪などの)景物に接したのは、彼の教養によってであった。この歌境は独自のものであった。こうした旅人に対して、家持はもっと歌自体の達成を深めていった‥。旅人には和歌とはこういうものだという、囚われた見方があった。これに対して家持はもっと自由に、歌を折々の感興の赴くままに感情を表現するもとしてしか考えなかった。‥歌は心中の鬱情を撥うものである。表現はただ内面のために存在していた。名状しがたい内心の情念に形を与え、よって理解の中に所有することが歌を作ることであった。そこにはもう歌を何かの功利的な手段と考える考え方は存在しない。その考え方は近代の歌人石川啄木だか「歌は悲しき玩具である」といったのときわめてよく似ている。家持の抒情が近代的だといわれる理由も、そこにあろう。‥歌人家持はつねに孤独であった。」(「旅人と家持」)
「(人麻呂の)呪的なざわめきと、(家持の)幽邃(ゆうすい)なひびきとの差は、何と大きいことであろうか。都市の「わが」なる語をもって形容される領有空間「やど」のその〈造られた〉世界の中において、はじめて鋭敏に棲息することのできた詩人が、大伴家持であった。旅人もまた、彼を遠ざかること、大であった。」(「旅人と家持」)

「万葉集の作者未詳の歌は全歌数の半分を超えるのである。これは並々のことではない。‥無名歌というのはねきわだった個人の作として創作されたのではない。いつしか集団の人々中から歌いだされ、また集団の中に愛誦されて伝えられたものである。‥作者によって伝えられるよりも作品によって伝えられたために、作者名が消えていった場合もある。」(「無名者たち」)
「防人たちの歌はこうした悲しみを歌うものが大半である。勇ましく征途にたつという具合のものはほんの一握りに過ぎないことは、防人がたとえ記名されていても、無名者の集団に属し、その中で安住すべき者たちだったことを教えてくれる。たがら防人の歌に悲しみがみちていることは、いかに集団性が強かったかを物語ってもいる。この強固な集団性こそ万葉集を万葉集たらしめている要素であって、万葉の有名歌人たちの歌もこの土台の上に造られたものにすぎない。それが後世の勅撰集などとははなはだしく異なる点である。」(「無名者たち」)

「都市文明の発達が急激であればあるほど、都と否かとのへだたりは大きくなってくる。東歌とよばれる歌の基盤がそれで、へだたりが大きければ大きいほど、両者の牽引も、ともどもに強かったであろう。都鄙はまるで話しことばと書きことばのように、両極をなしつつ牽引しあっている。」(「あとがき」)

 かなり飛躍した論もあるが、それが魅力である。近代短歌の石川啄木まで比較される時間の尺度でもっての歌人論、強引といえば強引であるが、着眼点を私はとても気に入っている。


捨てたくないダウンコートだが・・

2022年04月14日 19時54分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の最高気温は日付が変わったばかりのころの21.2℃。昼間は13℃ほどであったようだ。
 午後に整形外科のリハビリを受けるために一番薄いダウンコートを着て出かけたが、汗をかいてしまい、リュックにしまいこんでしまった。薄い化繊のサマーセーターでも地下鉄車内、病院内、そして病院の帰りに立ち寄った横浜駅の地下街では暑かった。

 厚めのダウンコートはクリーニングに出した。冬物のクリーニングが安くなるというので、妻が急いで店に持って行った。薄いダウンコートは背中のリュックのあたる部分の糸が切れたり、色が褪せているのでもう廃棄したい、という。私は愛着がある上に、色が褪せた部分はリュックで隠れるから問題はない、と言っているが、形勢は良くない。少なくとも連休移行は着ることもなく、来年にはもう存在していないと思われる。

 横浜駅の傍にあるいつもの喫茶店で読書タイムと思ったが、どういうわけか眼鏡を入れ忘れてしまい、5頁ほどで目が疲れて断念せざるをえなかった。
 喫茶店では、久しぶりにアイスコーヒーを注文した。

 午前中と帰宅後の夕食までは退職者会での宿題をこなした。予定の半分までは完了。もう少しで完成する。
 


やっと帰宅

2022年04月13日 22時20分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 やっと帰宅。おいしいお魚を口にすることができた。ホタルイカの次には「金目鯛のなめろう」を注文した。味噌の味が少し濃いめ金目鯛の味が負けていたかもしれない。でもお酒が進んだことは確かである。

 本当は赤貝の刺身、生ガキ、メゴチの天ぷらも食べてみたかったが、到底むり。次回のお楽しみということにした。

 明日の最高気温は本日よりも13℃も低いとの予報。体調管理が難しい。

 


ホタルイカ

2022年04月13日 18時51分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

ようやく居酒屋に入った。お魚が売りのお店。珍しいお酒も豊富。まずは宮城の「あたごの松」とホタルイカの刺し身を生姜を添えて注文。このホタルイカは美味しい。

次の注文を探すのが楽しみ。

 


午前中は晴れ

2022年04月13日 13時26分41秒 | 天気と自然災害

予報を裏切って午前中はよく晴れた。風もなく気持ちの良い陽射しであった。窓の外の日差しを横目にパソコンと格闘。

11時に外出。昼食を食べながら「万葉のことばと四季」(中西進)の最後の章を楽しいんでいる。

しかし残念ながら、13時を過ぎてから風が強まり、薄い雲が空を覆ってしまった。深夜には予報どおり雨が降るのであろうか。

これより、若干の作業。

 


台風1号の動き

2022年04月12日 21時18分51秒 | 天気と自然災害

 本日の昼過ぎはおとといのように暑かった。14時半に24.9℃とほぼ25℃の夏日であった。風もなくまくり上げた腕にじりじりと日があたり、一昨日よりも暑いくらいに感じた。しかし夕方になるとさすがにまだ半袖では涼しい。
 風はほとんど吹いていないと思っていたら、13時には南南東の風で最大瞬間風速が9.1mもあったとのこと。
 
 明日は朝から所用があって出かけなければいけない。帰りは遅くなる予定。ブログの更新が思うように出来ないと思われる。

 日付が変わる直前には雨が降るかもしれないという。台風1号の動きも気になる。小笠原諸島直撃という風に報道されていた。被害が出ないといいのだが‥。


「万葉のことばと四季」  その5

2022年04月12日 20時14分41秒 | 読書

      

 本日の午後はいつもの通り、横浜駅の喫茶店で短いながら読書タイム。「万葉読本Ⅲ 万葉のことばと四季」(中西進)の第Ⅲ章「万葉歌人の系譜」から「天智と持統」「額田王」を読んだ。

「持統が渡来者たちを優遇している記事である。これは天智朝の進取の風、大陸学の積極的な摂取の態度を引きつぐものといってよいのではないか。‥娘の心情のなかに父の政治が許容される日がきたとすれば、彼女自身が王者としての統御の苦をなめた後だったであろう。もちろんそれは娘自身の成熟と並行しあうはずのものである。人間としての愛憎の父娘が、王としての立場において、愛の関係を組み替えたであろう日が、晩年の娘にはあったに違いない。」(「天智と持統」)

「『古事記』を見てみると、散文は途中の説明、いわばナレーションで、会話の部分が歌になっていることがわかる。また自分の感情を述べるところも歌である。歌によって筋が語られることもはない。こうした意味で『古事記』における語りと歌によって筋が語られることはない。その中から歌だけを取り出してきたのが万葉集である。」(「額田王」)


桜の実

2022年04月12日 18時15分57秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 フラワー緑道の横浜駅にもっとも近いところで咲いていたカワヅザクラとヨコハマヒザクラの桜の実が出来ているのか、気になって見てきた。毎年赤くなっているのを通りかかってみるだけだったが、今年は実の状態が気になった。

   

 やはり早く咲いて、散ったカワヅザクラの方が実が大きい。しかも赤くなりかけているのもあった。



 ヨコハマヒザクラの方はまだ桜蕊が枝にたくさんついており、それが落ちたものの子房が少しふくらみかけた程度。緑色の実というよりも、赤黒く細長い。
 赤い花弁が、赤黒い蕊に変わり、さらにその色が黒く固まりそのまま子房がふくらみ始めたように見える。

 住んでいる傍のオカメザクラの実がどうなっているかも気になるところ。本日確認できなかった。後日の楽しみにしておこう。

★葉の陰に揺れはそれぞれ桜の実

  日当たりの具合、木の成長の具合、そして突いた枝の状態によって花弁も蕊も桜の実も、少しずつ違う。その個性は実の振る舞い方にも違いが生じている。植物の個性を許容するように、人の個性を許容するのはなかなか難しいものである。年齢が進むとともに、歳の撮り方に自覚的になる。


宿題が少し

2022年04月11日 22時34分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日は特に予定は入っていない。しかし本日の会議で宿題、そして来月の退職者会のニュース作成予定の日程の確定など、来週の幹事会に向けた作業をしなくてはいけない。天気はいいのだが、外に出て楽しむわけにはいかない。
 しばらくのんびりしていたので、こなさなくてはいけないことがあるのは、メリハリがあっていい刺激になる。
 本日はこれにて店仕舞い。ゆっくりお風呂で膝とその周囲の筋肉のマッサージをしたい。


フォトショップの解説本

2022年04月11日 21時50分17秒 | 読書

 本日は会議終了後、家電量販店でフォトショップの使い方の解説本を購入してきた。これまで、体験的に覚えたことだけで利用してきたが、もう少し踏み込んで使いこなしたいと思った。せっかく数千円をかけて購入したので、宝の持ち腐れではもったいない。
 色や明るさの補正、解像度の変更、簡単な編集、切り抜き等はこなしているが、まだまだ使いこなしていないことは確かである。
 しかし解説本はどれもが2000円を超える。とても厚くて重い紙を使っている。もっと安く手に入れたいと思っていたが、そのようなものは棚になかった。

 見比べているうちに、親の病院への付き添いの依頼電話があり、慌てて数種類の中で一番安いものを購入してきた。入門書に近いので、物足りないかもしれない。たまっているポイントでは少し足りなかった。
 外れであったら残念であるが、致し方ない。ハウツーものの本を購入するのは何年振りだったろうか。

 


バリカン

2022年04月11日 20時48分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩、3週間ぶりにバリカンで頭を剃った。バリカンを購入してから3回目である。前2回よりは要領よく、短時間で3ミリの長さで全体を剃ることが出来たと思っていた。しかし本日になって頭の一部を触ると痛い箇所がある。血が出ているわけではないが、小さな傷をつけてしまったかもしれない。妻に見てもらったり、自分でライトで照らしても傷がない。不思議である。
 本日は午後から退職者会の会議。来週の幹事会と総会に向けた準備の会議であった。たっぷり16時過ぎまでかかった。

 帰宅直前になって急遽親の通院に付き添うことになり、最寄り駅まで出向き、帰りは楽をしてタクシーで帰宅。

 退職者会の会議で、4月後半から5月いっぱいの日程が整理され、これよりスケジュール帳に転記予定。それなりにたくさんの日程が入ってきた。コロナ禍とは思えない。
 しかし都内に出向かなければならない行動は、膝と相談の結果、引き続き遠慮させてもらうことにした。他の参加者の足手まといとなるわけにもいかない。


「幕末明治のはこだて」展

2022年04月10日 23時26分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 東京都写真美術館で「写真発祥の地の原風景 幕末明治のはこだて」展を見てきた。

 私は小学校3年が終わるまでの6年半を函館で過ごしたので、「はこだて」という文字にすぐに反応してしまった。とてもなつかしいのである。もっとも小学校3年の終わりまでであるから、たいていの人は嫌なことよりも親や周囲の人から温かく接してもらった良い印象が多いはずだ。
 私は変わった子だったこともあり、プラスもマイナスもずいぶんいろんなことを記憶している。まだそれを語るわけにはいかない。
 ただ木造の長屋風の平屋ばかりの古びた住宅街のくすんだ色、そして漂ってくるどぶの臭いやどこからとも流れてくる潮の香りや魚の饐えたような臭い、イトミミズが漂う泥の感触、馬糞の混じった土の臭いは今でも鮮明に思い出す。
 明治時代前半の町並みの写真にも、1950年代の当時の函館にはやはり共通点がある。1960年代から今までの変貌に比べると、変貌の度合いは少ないのかもしれない。
 同時にロシア正教会などのペンキの目にも鮮やかな白の反射光、しゃれた駅前の商店や珍しい洋風レストランや市電の軌道と、住宅街の裕福とは言えない落差もまた五感で覚えている。

 そんなことを思い出しながら、幕末から明治にかけての、不鮮明ながら世相が立ち上ってくる写真の数々に目が吸い寄せられた。
 月岡芳年などの作品は色鮮やかであるが、モノクロの写真の街並みや人物の方が私にとってはその町並みの臭いや大気の感触を伴って迫ってくる。静的な写真の方がより動きを感じてしまう。絵画作品からは私には函館という町の動的で感覚的なものが伝わってこない。函館戦争など事件に題材をとった作品だから、町並みやそこに住む人々の息遣いは聞こえてこない。
 これが他の都市の場面であると逆になるかもしれない。例えば現在私の住む横浜では多くの古い写真があり、同時に風刺画や浮世絵がある。絵画作品のほうがより動きを伴ってリアルに感じることが多いものである。
 しかし函館の時は違うのだと本日認識した。幼児体験というもの、肌や臭いなど五感で感じとって記憶したもの、これらは絵画作品よりも写真の方がより記憶を覚ましやすいものかもしれない。住んでいる人を思い起こす何かがあるのだ。
 そんなことを考えながら、会場内を興味深く見て回った。

 幕末から明治にかけて作られた市域の景観が、1950年代までほ基本的にほとんど変化がないというのもまた興味深いものである。