Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ヘンデル「ヴァイオリンソナタ集 作品1」

2022年06月03日 11時15分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昨日から作業をしながら聴いているのは、ヘンデル「ヴァイオリン・ソナタ 作品1」。全6曲のソナタ集である。
 演奏はアルテュール・グリュミオーのヴァイオリン、ロベール・ヴェイロン=ラクロワのチェンバロ。1966年の録音である。
 この曲集ではヨゼフ・スークの演奏のCDも持っている。音の透明さが欲しいときはスーク盤を、華麗さが聴きたいときはグリュミオー盤を聴くことにしている。
 この曲集はヴァイオリンの初・中級者の課題曲でもある。とてもなつかしい。数日はこのCDを楽しむ予定。


排気筒の窓枠完成

2022年06月03日 10時42分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 クーラーの排気筒のための窓枠が完成した。一応思い描いたとおりに出来上がった。上半分を透明のアクリル板にしたのが我ながらの自慢。十分に明るい。ベニヤの板であれば部屋の中がかなり暗くなってしまったと思う。
 丸い穴を開けるのが一番てこずった。いびつな穴になったら充填剤でふさぐしかないと危惧していたが、最大で0.3ミリ程度の隙間なので、そのままにした。網戸濃しでもあり、小さな蟻も多分入らないと思われる。

 惜しむらくはその穴をもう少し下につければ良かったのだが、それは出来上がってから気がついた。このまま使うしかない。
 さらに脱着がもっと簡単に出来ると思っていた。しかしアクリル板が重いので、一日に一度程度の脱着にせざるを得なくなった。

 簡易的な枠としては上出来であろう、と自己満足。
 


読了「図書6月号」

2022年06月02日 23時26分51秒 | 読書

 後半の6編を読んだ。一応読了の扱い。

・モハマッド・ハッタの夢       弘末雅士
「当事国にすれば、人類の普遍的原理に基づき苦労して形成した国民国家を揺さぶる存在に、しかるべく対処し、関係者を指導したということになろう。今日のロシアのウクライナ侵攻の理念も同様である。自国中心的な発想であるが、こうした衝突を避けるのは容易ではない。まず関係諸国の多角的な協議が必要となろう。それとともに、国民的同一性に固執しない、領域や住民に複数の帰属を容認する国家枠組や国際秩序が、そろそろ議論されてもいいのではないだろうか。」

・人と物について           桐谷美香

・その世               谷川俊太郎
「〈詩は音楽に恋する〉というのが私が折に触れて口にする決まり文句の一つです。」

 その世
この世とあの世のあわいに
その世はある
騒々しいこの世と違って
その世は静かだが

あの世の沈黙に
与していない
風音や波音
雨音や密かな睦言

そして音楽が
この星の大気に恵まれて
耳を受胎し
その世を統べている

とどまることができない
その世の束の間に
人はこの世を忘れ
知らないあの世を懐かしむ

この世の記憶が
木霊のようにかすかに残るそこで
ヒトは見ない触らない ただ
聴くだけ

・ずっと死を読むのが好きだった    金原瑞人

・輪郭線               岡村幸宣
「「記憶の風化」といわれる2020年代に、決して風化されない歴史の矛盾を引き受けて生きる痛み。不均衡な社会に守られている側の自分が、本当の意味でその痛みを理解し共感することはできないし、したつもりになってしまう危険を忘れてはいけない。」

 


開港記念日の花火

2022年06月02日 20時48分27秒 | 天気と自然災害

 眼鏡店でかなりの時間を検査等で費やし、3人で17時近くになってから帰宅。だいぶ疲れたようだ。眼鏡店の店員ももう少し高齢者であることを考慮した対応をしてもらいたいものだと思った。何しろすべて説明しないといけないとばかりに、しゃべることしゃべること。客の状況やこちらの顔色を見て、何が必要なのか、省略していいことは何なのか、そのような応用がまるで利かない若い店員であった。私ひとりならば「勘弁してくれ」と言って店を出てくるところであるが、ようやく連れて行った高齢の親なので私はひたすらガマン。
 眼鏡店を出て、喫茶店でホッと一息をついて、休息。

 本日は横浜の開港記念日、ということで先ほど短時間だが、花火が打ち上げられていた。ちょうど夕食後で一服していた。外に出るのが億劫で音だけで花火を堪能した気分になった。

 最高気温が27.4℃で昨日よりは低かったものの、湿度が71%を超え蒸し暑く感じた。夕方になって南寄りの風が強まり、雲も多くなった。
 群馬県では竜巻、雹、雷などがすごいらしい。きわめて強い雨の区域が北西から南東に移動している。こちらにも影響が出るのであろうか。
 今のところ横浜市域には雷注意報だけが継続して出ている。


心地よい風

2022年06月02日 11時20分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩は寝ころびながら「図書6月号」を半分ほど。途中で寝てしまわずに読むことが出来た。今朝の目覚めは快調。
 今朝はよく晴れて10時にはすでに25℃になった。南寄りの風が4メートルほどある。ベランダで直接日の当たらない場所を選んで軽作業するのには心地よい風である。
 昨日購入したベニヤ板を切り、そして円形の穴を開けた。直径10cmほどの穴を開けるのに苦労をしている。2cmの円形ドリルで周囲を切り、小さなのこぎりと粗目の紙やすりで削ってみたが、きれいな円にならない。明日もまたこの円形の最後の仕上げに時間がかかりそうである。少しいびつになったので、隙間を詰めるものを探さなくてはいけなくなった。
 本日の午後は親の眼鏡の調整のために眼鏡店に同行。ついでに遅い昼食を3名で。雷注意報が出ている。夕方は注意が必要らしい。


「図書6月号」から

2022年06月01日 23時47分18秒 | 読書

 眠気に負けずに、とりあえず6編を読み終わった。

・[表紙]ジェーン・シーモア         杉本博司
「ジェーン・シーモアの死後、失意に暮れる王(ヘンリー八世)の次の妻として宰相トマス・クロムウェルは政略結婚を画することになる。王の床は性から政へと流れ行くのだ。」

・残されたノートに寄せて          井波陵一

・「ひまわり」を観よう           原田宗典

・〈対談〉戦争文学で反戦を伝えるには    逢坂冬馬・奈倉有理
「(逢坂)ウクライナ侵攻が始まってから、ものすごく一面的な見方をされることもあって――「戦うのか、死ぬのか」という二択のなかで敵を殺すために少女たちが立ち上がる冒頭だけを抜き出して、それを現在のウクライナに重ね、祖国を守るウクライナの人々を賛美するという途方もない誤読がありました。
(奈倉)戦友や我が子の死が無駄であってはいけないという思いが、苛立ちや悲しみや怒りに結びついてしまう。戦争の暴力性は他者の言葉を理解する能力を致命的に鈍らせてしまうのではないか‥。‥なぜいまロシアが戦争をしているかといえば、とにかく「戦争は悪い」という声を徹底的に潰してきたからです。学校教育でも「独ソ戦の勝利」を華々しく祝うことばかりが重視され、戦争の悲惨さや‥ほとんど学ばれていません。「自分たちは基本的に被害者であり他国を侵攻するなどするわけがない善良な国である」という教育をおこない、反戦運動を馬鹿にするような世論を育てることは、戦争をしようとする国家が必ずと言っていいほど通る道です。ですから「平和が大事」と言える世の中は決して当たり前ではなく、揶揄する人を警戒し、細心の注意を払って守るべきものです。
「(逢坂)「偉大な勝利」に幻惑され「戦争は良くない」という理念が共有されない問題は米国にもあり、日露戦争後の日本もそうでした。「戦争はよくない」という理念を共有できる空間は希少で、守るべきものです。」

・森鴎外の転換点              澤田瞳子

・小澤征爾の世界と「ふれる」        大西 穣


何となく・・・

2022年06月01日 21時28分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日はちょっとお疲れ気味か。昨日のお酒が残っているのかと思っていたが、どうもそうではないようだ。何となく体が重い。
 こういう時はさっさと寝てしまうに限る。

 本日自宅に戻ってみたら、岩波書店の「図書6月号」が届いていた。薄い雑誌ならば読む気力も湧いてくる、ということで、この本をもって寝室に直行することにした。体が本当にだるいのであれば、そのまま寝てしまうはず。そうでなければそれなりには読むことが出来ると思う。客観的な指標ではない単なる目安。

 


凝り性といわれたが・・・

2022年06月01日 20時32分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は退職者会の関係で依頼された作業に従事、その後作業に参加した仲間からの誘惑を断って、排気筒用の窓枠作成のための材料を横浜駅近くの店で購入してきた。窓枠は取り外し可能なものにする予定。
 購入したのは透明なアクリル板、ベニヤ、紙筒など。思った以上に高くなってしまった。これらを材料に明日の午前中に、のこぎり、電動ドリル、やすり、木工用ボンドなどを駆使して何とか脱着可能な窓枠を作り上げたいものである。
 夕食前に何とか準備作業を終えた。しかしこれ以降の作業は音が出るので、今晩はもう出来ない。

 昨日知人に、脱着可能な窓枠を自作したいと述べたら、驚かれた。マメ・器用だという評価らしいが、本人はズボラで不器用な人間だと思っている。凝り性だともいわれたことがある。これも本人の評価とは違っている。本人は飽きっぽい性格だと思っている。
 人が見る目と本人の自己評価は常におおいに違っている。何事も決めつけてしまうのはもっといけない。特に子どもの性格に対して、「私の子はこういう性格だから云々」と親が勝手に決めつけるのはきわめて良くないことだと思う。親の目の尺度で、子どもの性格までゆがめてはならない。