Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

弱い雨の夜

2022年06月07日 22時35分27秒 | 天気と自然災害

 ブラームスのヴァイオリンソナタ全3曲を楽譜を追いながら聴いた。何年ぶりだろうか。それにしてもいづれの曲もいつも心に響く。
 こんな雨模様の夜に聴くにはいい。ことに第1番は「雨の歌」とも呼ばれている。

 夜になっても弱い雨が時折降ってくる。盛んに伸び始めた雑草が雨粒で街灯の明かりを反射している。肌寒く感じる。先ほど号棟の北側を見たらヤモリが防犯灯の柱にへばりついていた。

 明日は昼前には出かける予定である。当初の天気予報では雨マークが出ていた。先ほど確かめたら、終日50%の降水確率で曇時々雨、最高気温18℃の予報があった。別のところでは降水確率は出ていないが終日曇のマーク、最高気温21℃であった。
 一致しているのか、不一致なのか、少なくとも折りたたみ傘は持参しないとまずいようだ。出来れば明日は杖を突いて出かけたいと思っていた。傘はリュック、杖を突いて出かける、ということになりそうな気配である。出かけるときに雨が降っていれば、杖はリュックに入れて出かけないといけない。

 明日の帰りは遅くなる。


ブラームス「ヴァイオリンソナタ全3曲」

2022年06月07日 20時55分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 経路の変わった読書がしたくなって、「ゴッホとゴーギャン 近代絵画の軌跡」は本日は終了。

 本日聞いている曲はブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1~第3番。演奏はローラ・ボベスコのヴァイオリン、ジャック・ジャンティのピアノ。1980~1981年の録音である。
 久しぶりに楽譜を追いながら聴いている。楽譜やスコアーを目で追いながら聴くのと、耳だけを頼りに聴くのとでは、心構えだけでなく受け取る曲の感じも違ってくる。楽譜を目で追いながら聴くと緊張する。そして聴くたびに音一つ一つに新しい発見をする。
 楽譜を持たないと、自由に感想が飛躍してこれもまた楽しい。どちらでも楽しい。どちらにするかは本当に気分次第である。


梅雨入り

2022年06月07日 18時14分04秒 | 天気と自然災害

 昨日関東地方が梅雨入り。本日は宮城県内でかなり降って被害も出たようだ。

 昨日に引き続き「ゴッホとゴーギャン」と「日経サイエンス7月号」に目を通した。
 「ゴッホとゴーギャン」は第3章の「2.ポール・セザンヌ」を読み終えた。「日経サイエンス7月号」では特集記事「ウイルスと原始生命」の「試験管で再現したRNA生命体の進化」、ならびに「謎の小児急性肝炎」に目を通した。
 「日経サイエンス7月号」はとりあえずこれにて読了ということにした。

 神奈川大学の六角橋キャンパスの生協に寄り、注文していた「演奏家が語る音楽の哲学」(大嶋義実、講談社選書メチエ)を受け取り、さらに「聖母の美術全史」(宮下規久朗、ちくま新書)を注文した。

 本日も昼間は20℃ちょうどくらいであったようだ。半袖のポロシャツの上に長袖のウィンドブレーカーを羽織って出かけた。
 午前中は降らなかったものの、帰宅時バスの窓ガラスに雨が当たっていた。さいわい降りるときには雨はあがった。短時間の雨でホッとした。
 しかし明日も雨模様らしい。

 


本日から「ゴッホとゴーギャン」

2022年06月06日 22時11分20秒 | 読書

   

 本日も結局一歩も外に出ることがなかった。体重が増えてしまったかもしれない。
 家にいる間に読み始めた本は、「ゴッホとゴーギャン 近代絵画の軌跡」(木村泰司、ちくま新書)。本日は第1章「印象派とジャポニズム」、第2章「印象派展と19世紀フランス」、そして第3章「印象派からの旅立ち」の「1.カミーユ・ピサロとその時代」まで。



 この本の合間に、「日経サイエンス7月号」の特集記事「ウイルスと原始生命」から「巨大ウイルスがゆるがす生物と無生物の境界」に目を通した。理解できたか心もとないのが残念である。


「梅たたき」の思い出

2022年06月06日 20時09分38秒 | 料理関連&お酒

 昼前に大雨注意報が出た。時間雨量換算で20ミリ未満の雨では基本的には路面の排水の能力を超えることは無いので、溢水や冠水の怖れはない。また土砂崩れなども想定はされない。30ミリを超えると危険信号である。
 現在は横浜市域は5ミリ未満の雨の区域に覆われている。

 この記事を書いていたら、19時過ぎに大雨注意報が解除になったというメールを受信。ひとまず雨のピークは過ぎたようだ。しかし未だ5ミリ未満の雨が降っている。レインアイよこはまを見ると間もなく雨は上がりそうな気配がある。

 予報最高気温は乱高下していた。今のところ最高気温は日付が変わったばかりの0時1分の21℃、最低気温が16時直前の15.8℃でとなっている。ある意味では予測の範囲内と言えなくもない。

 明日は親の用事で出かけなくてはいけない。明後日は別の用事があり出かける。しかし明日は降水確率40%、明後日は雨マークがついている。傘は必携。膝が痛いので杖を手放したくないので、出かけるときは雨は降らないで欲しいものである。

 本日は久しぶりに台所に立って、梅たたきを作ってみた。梅干し8個、長ネギ・大葉・焼き海苔をみじん切りにし、鰹節と親指の先程度の味噌を混ぜて包丁で細かく叩くだけ。これだけでも腰が痛くなり、悲鳴を上げそうになったが何とか出来上がった。
 これを妻にささみのはさみ揚げ、豚肉で肉巻き揚げにしてもらった。残りの梅たたきは冷ややっこの薬味として利用。少々塩分の絶対量が多かったかもしれない。私の好みとしては、焼き海苔が多めのほうがおいしい。またミョウガを入れるのもアイデアとして頷ける。
 さらに残ったものは冷蔵庫へ。お粥と一緒に食べても良いし、日本酒のつまみにもできる。あるいはフライものにつけてもおいしいはずである。
 この梅たたき、最近は居酒屋でも作ってくれるところが無くなった。昔、ときどき顔を出した居酒屋で、持ち合わせが少ないときに簡単で安いつまみを所望したら店の親父さんが即席に作ってくれた。そしてその次に店に行ったときに新しい短冊に「梅たたき」として一番安い新メニューになっていた。ここでは白ごまを最後に振りかけてくれた。本日はその白ごまを忘れて、今思い出した。

 


ショパン「ピアノソナタ」全3曲

2022年06月06日 11時19分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨晩の天気予報では横浜の最高気温の予報が18℃までさがった。本日の朝の天気予報では21℃。予報の乱高下状態である。
 深夜から降り始めた雨は、8時ころが一番強かったようだ。時間雨量換算で20ミリの雨の区域が通過していった。現在は10ミリ程度の雨であるが、雨の音から判断するともっと強い雨のような気もする。
 昨日までたっぷりとヘンデルのヴァイオリンソナタを聴いた。本日はピアノにしたくなり、ショパンのビアノソナタ全3曲を取り出してみた。
 アシュケナージの演奏のCD、表記が細かくてよく見えないが、1975~1981年にかけての演奏のようである。ルビンシュタインの演奏が欲しいのだが、手元にない。昔探したが断念した記憶がある。
 


ヘンデル「ヴァイオリン・ソナタ」を聴きながら

2022年06月05日 22時57分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 明日は18時過ぎまで雨とのこと。かなり強く降るという予想もある。そして最高気温が横浜で22℃の当初の予想が18℃に下がった。東京では17℃になっている。予想がこんなにも大きく変更になるのも珍しいと思う。

 ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ作品1のグリュミオー盤を本日は幾度も聴いた。ただし、午後はボテロ展の図録を見ながらなので、バックグラウンドとして。もったいないと思いながらも、図録を読んだり、ブログにアップする画像の選択に時間がかかった。
 夕食後に、じっくりと聴いている。幾度聴いても飽きない曲である。この6曲の真偽はいろいろとあるようだが、この6曲の統一性と水準の揃っていることなどを考えると私にはいずれも同一作曲家のしかもレベルの高い作品と思っている。

 雨は東京都西部、埼玉県秩父地方、群馬県、山梨県北部ですでに降り始めている。しかし雨の区域は南から北上している。神奈川県内に雨の区域はないが、東京都の境界付近から雨の区域が発生している。
 横浜市域に雨の区域がかかってくるのはいつ頃なのだろうか。予報では日付の変わるころらしい。

 友人に電話しようと思っていたら、うかつにももう23時になってしまった。電話は明日にせざるを得なくなった。

 

 


ボテロ展感想

2022年06月05日 20時48分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 午後からボテロ展の図録を読み、眺めていた。メインの解説「フェルナンド・ボテロ 形を超えて」(チェチリア・ブラスキ、訳・寺田寅彦)は、残念ながら解説自体がよく理解できない文章なのか、訳が日本語になっていないのか、多分両方の原因と思われるが、理解できない文章であった。本来公開できるような文章ではない。東大大学院教授という肩書が恥ずかしい。読むのがばかばかしくなり、途中で読むのをやめた。
 「ボテロ-静物画の「謎」をめぐって」(三谷理華)と「ボテロの彫刻」(金井直)は参考になった。



 展覧会で私が圧倒されたのは、黄・青・赤の花の3点組(2006年)であった。縦2m、横1.6mの大きなキャンパス3枚から光が溢れ出していると感じた。ボテロというとその豊満な人物や物の形を思い浮かべ、その解説や由来について議論される。私はこの3点組の作品で、ボテロという画家が色彩による質感を追及した画家、という視点が欠かせないのではないか、と感じた。
 この3点組の作品の前に「オレンジ」(2008年)も橙色の背景と赤い布の上に4個のオレンジが描かれている。テーブルが茶色である。同系統の4色にもかかわらず、オレンジが浮き出るように見える。
 これらの4点の作品であらためて気がついたのが、花々の細かな描写もさることながら、塗られた色面の丁寧な仕上げである。同色であっても光の当たり具合や質感・釉薬の輝きの違いまでもが丁寧に描き分けられている。総じて他の作品もこの丁寧な描き方が特徴だと感じた。



 ボテロの作品からは社会批評的な要素は嗅ぎ取って評価するのは作者の本意ではないという。本人もそのように語っているようである。しかし人物像からは、作者の見た南米のコロンビアの社会の状況が反映している。そのように鑑賞してしまう。
 「THE WIDOW」(1997年)では、貧しい生活に追われるシングルマザーの仮定が明るい色彩にもかかわらず、子どもめいめいの勝手な動きと母親の涙、男のような猫の表情から読み取ることが可能である。



 もう一つ取り上げるのは宗教画のコーナーにあった「守護聖人」(2015年)。作品の解説では「かなり風変わりな自画像」としている。そのとおりと思われる。表題は守護聖人だが、寝ている人が画家本人の自画像と私も思う。ベッドの両端と椅子、床の紙、窓によって遠近法が匂わされているが、かなりいびつである。寝ている画家に比べて天使がそのボテロ的な豊満さ以上に大きく描かれて遠近法を逸脱している。
 私はこの異常な大きさと寝ている主題の自画像のいびつな関係に、スペインを宗主国としてカトリックが貧困な国に君臨し、社会の隅々まで影響力を駆使している社会の息苦しさを読み取ってしまう。私の考え過ぎ、穿ち過ぎと言えるかもしれないが、どうしてもそう読み取ってしまう。
 画家は12歳からイエズス会の高等学校に在籍するも17歳で描いた裸体デッサン、やピカソに関する論評によって大綱処分になる。他の高校に端絵で学費を絵ながら卒業している。そのような社会のカソリックの影響力の強い社会の息苦しさ、重苦しさがこの天使の重さ、大きさとなって画家に覆い被さっている暗喩となっていないだろうか。



 ボテロと言えば過去の名画のボテロ流の大胆な描きなおしで有名である。今回の展覧会でも「モナ・リザの横顔」(2020年)など最新作も含め13点が展示されている。いづれも興味深く見ることが出来た。
 なかでもここに取り上げた「ゴヤにならって」(2006年)は印象深かった。かつてのコロンビアの宗主国スペインの近代を代表するゴヤを取り上げていた。
 そのようなスペインとの歴史とは無関係にゴヤの作品に影響を受けて、ボテロ流に描いたと言えるが、私はどうしてもスペインとコロンビアの社会との関係が気になってしまう。鑑賞の態度としてそれが邪道といわれるかもしれないが‥。

 作品はこれだけではないが、いづれも丹念な仕上げと、原色の輝きが不思議な明るさを醸し出している。作品解説の中で「ボテロは意図的にこれらの人物に同じ表情のなさを追及しているが、それはかれがピエロ・デラ・フランチャスカの肖像画やエジプト芸術のうちに称賛する無表情さ」という指摘があった。ボテロ自身の言葉なのか、はっきりしないのだが、私はボテロの描く人物は実に表情豊かだと感じた。
 これについては、もう少し勉強する機会が欲しいと感じた。
 
 繰り返しになるが、コロンビアは政治の腐敗、麻薬、そして国内内戦などの混乱を経験してきている。ボテロがまったくその状況に目を瞑っていたとは思えないと作品から強く感じている。


ボテロ展図録

2022年06月05日 13時57分52秒 | 読書

 正午前に団地の会議は終了。膝は相変わらずかなり痛い。団地の中にある集会所までの往復、階段がとてもきつかった。

 買い物は妻に任せることにして、本日は家で養生の日。

 雲が多く、太陽はときどき顔を出す程度。日没とともに雨が降り始め、日付の変わるころにはかなり強く降るという予報になっている。すでに雷注意報が出ている。雷鳴はまだ聞こえてこない。

 ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ集を聴きながら、ボテロ展の図録を見ることにした。

 


読了「日本美術の核心」

2022年06月04日 23時33分18秒 | 読書

   

 「日本美術の核心 周辺文化が生んだオリジナリティ」(矢島新、ちくま新書)を読み終えた。

「ルネサンス、バロック、ロココと推移した西洋絵画の発展は自律的なものであったが、その分多様性にかけるところがあったようにも思われる。一方日本絵画は常に外から刺激をうけることで新しいスタイルを生みだしてきた。(日本絵画の)18世紀の多様性は、庶民化の進行と中国や西欧からの新たな刺激が生みだしたのである。」(第9章「多様なスタイルの競演」)

「大文明から流れ込んでくるファインアートをはみ出す部分に焦点を当ててきたわけだが、大文明から流れ込んでくるファインアートを懸命に学び、消化してきた周辺諸国では、日本と同様にファインアートをはみ出す字名が多かったと考えられる。日本のオリジナルと思われたものが、周辺では一般的ある可能性を考慮しないわけにはいかない。日本は特別だと言い立てるだけでは、浅薄なナショナリズムに陥る危険もある。文明の周辺に位置していた地域としては、ロシア、イギリス、朝鮮(韓国)が思い浮かぶ。‥」(第10章「周辺のオリジナリティ」)

「ロシアは狭くはビザンツ文明の、広くはヨーロッパ文明の周辺に位置していた。日本と立場が異なるように見えるノシ、ロシア自身が中央アジアなどに周辺地域を抱えており、そうした周辺に暮らす民族に対して中央文明として振舞ったことだろう。‥ギリシャ正教会で重視されたイコンの伝統を守ったことは、日本と同じく文化の保存庫の役割を(ロシアが)守ったことを意味している。宮下規久朗は「聖母の美術全史」(ちくま新書)の中で「19世紀にはヨーロッパとは一線を画した力強い写実主義を、20世紀には世界で初めて抽象絵画を生みだした原動力となっているのは、イコンの伝統であった」と述べている。‥ロシアの場合は西洋文明の一員として振る舞い続けており、その枠を抜け出ていないように見える。‥ルボークという民画は17世紀半ばのロシアに誕生した民衆向けの素朴な木版画である。‥絵が素朴であることはもちろん、成立の近さ、民衆向けであること、初期には宗教的な主題が多かったことなど、日本の丹緑本や大津絵との共通点が多い、18世紀前半に量的なピークを迎え、18世紀後半にエッチング、19世紀に入ったころにリトグラフが導入されるなど、徐々に技術が向上した軌跡は浮世絵版画にも誓い。ルボークが日本の素朴絵と異なるのは、知識人層が価値を認めず、あくまで庶民のための安価な絵であり続けたことだ。」(第10章「周辺のオリジナリティ」の「ロシアの場合」)

「アートの分野では島国イギリスが大陸に対していささかのコンプレックスを抱いていたのは間違いないだろう。イギリス式と言われる自然風景庭園は、‥18世紀始めころにフランス庭園からの脱却を目指して始まった‥。19世紀後半に起こったアーツ&クラフツ運動である。ウィリアム・モリスが始めたこの運動は、中世の素朴な手仕事を改めて評価したことに始まる。‥大量生産品への反動というフレーズは柳宗悦の民藝運動について記したところとよく似ている。‥アーツ&クラフツ運動と民藝はともに工芸の分野において素朴に立ち返ろうとした運動であり、共通するところが多い。」(第10章「周辺のオリジナリティ」の「イギリスの場合」)

「筆者は美術の価値を測る絶対の基準など存在しないと考える。西欧の15世紀から19世紀半ばまでのリアリズムを基調とする絵画も人類が生みだした数あるスタイルの一つであり、リアリズムにこだわった西洋絵画が普遍的なのではなく、むしろ特殊な存在であるように思われる。19世紀後半のフランスの絵描きは日本絵画との邂逅を通じて、絵画は本来自由であり、多くの可能性があることに気付いたのでは無かったろうか。」(第10章「周辺のオリジナリティ」)

 この書物、頷けるものやなるほどという箇所も多くあり、刺激を受けた。特に第10章で「大文明」の「周辺「「の特徴を示唆的・ポイント的に指摘している点は斬新に思われた。また日本の「周辺」として関東・北東北・蝦夷地・琉球を考察の対象にしようとしたことも頷ける。しかしいづれもが未だ提起で終わっている点で、この10章の続き、展開を期待したいものである。
 同時に展開不足を感じるところ、構成の再検討、文言のもどかしさを感じるところも多々あった。今一つ筆者の本意がよくわからないと感じた。

 第9章で筆者は次のようにも指摘している。
 「美術における多様性がピークを迎えようとしていた江戸時代中期、日本の伝統を突き詰めようとする国学が登場する。国学者の主張は、長い年月の中国文化の影響を取り除けば、日本固有の何かが現れるというものであった。(しかし)文明の周辺に位置した日本文化の本質は、外から刺激を消化して、自家薬籠中の物にしていくプロセスにこしあるの手は内科。外からの自然なくして今の日本の文化はない」
 この指摘は当然のことであるが、私はこれは日本の文化に限ることではないと思っている。「日本」にこだわるあまり、ここの点の普遍化に言及がないことに不満を感じた。
 どんな地域であれ、周辺であれ、「大文明」の中心であれ、外からの刺激を受容出来なくなり、「純粋な我が伝統」にこだわり、他者に対して排他的になり、他者や他の文化からの刺激を排除したり、応用力が無くなった時が、その文化・文明の終焉を意味すると断言していいのではないか、と考える。

 今の日本、この観点からするときわめて崖っぷち、繁栄の終点、衰退への最後の地点に立ち尽くしているように思える。ひとつの時代の終焉は、このような状況を呈するのであろうか。

 なお、参考図書として挙げてある「聖母の美術全史」(宮下規久朗、ちくま新書)は私も読みたいと思っていた本である。近いうちに手に取りたい。


痛み止めとストレッチ体操

2022年06月04日 20時19分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夕食後再び痛み止めを服用し、右膝の周囲に湿布薬を大量に擦りこんだ。2月ごろの痛みに逆戻りしたような痛みである。
 明日の朝の痛みがどうなっているか、心配をしている。
 明日は軽いストレッチ体操で筋肉の凝りをほぐしつつも、歩くのは自重して家で過ごすようにしないといけないようだ。

 先ほどの写真をモノクロにしてみたが、あまり変わり映えせず、これ以上は断念。

 これより夜の読書タイム。本日中に「日本美術の核心」を読み終えてしまいたいと思っている。

 


防水スプレー

2022年06月04日 19時21分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は少し歩きすぎたようで、本日は朝から膝が痛くて往生している。寝る前にも痛み止めを服用して寝たものの、朝になって右足全体の筋肉が強くこわばり、何回も伸びをしたり、ストレッチをおこなってようやく起き上がることが出来た。

 昼前にもう一度痛み止めを服用、15時過ぎに少しばかり痛みが薄らいでから、横浜駅まで出かけた。昨日友人に、窓枠にベニヤ板を使ってならば、とりあえず防水スプレーをかけておいたほうが、急な雨で取り外せなかって時に多少でも役に立つのではないか、と指摘されていた。防水スプレーが木材に有効とは聞いたことは無いが、とりあえずは試に使用してみることにした。

 横浜駅までバスで出かけたが、久しぶりに杖を突いて出かけた。歩き出すとかなり右足に痛みが出た。

 ドラッグストアで防水スプレーを購入して、再びバスにて帰宅。先ほどベニヤ板に噴霧してみた。これで雨を防いでくれるとありがたい。
 バスを待つ間、横浜駅から西の空の雲が美しく見えた。


雷注意報以外は解除

2022年06月03日 23時26分09秒 | 天気と自然災害

 20時過ぎには雷注意報をのぞいて警報・注意報は解除された。竜巻注意情報も無くなった。家を出たときも、茅ヶ崎に着いた時も、帰りも雨や雷には会わずに済んでホッとした。

 茅ヶ崎市民会館での集会後、駅前で1時間ほど少人数で飲み会をしてから帰宅。茅ヶ崎駅から少し歩いて行った当初の目的の居酒屋は満席で入れず、駅のすぐ近くの居酒屋に入った。だいぶ歩いたので、注文したハイボール・泡盛の水割りがとてもおいしく飲めた。あわせて3杯でお開き。

 明日は予定はない。明後日は午前中が団地の管理組合の諮問会議。


大雨警報・洪水注意報も発令

2022年06月03日 15時20分45秒 | 天気と自然災害

 14時前には大雨(浸水)警報、洪水・雷注意報、竜巻注意報となった。私の家の周囲では雨は上がっている。しかし風は強くなったままである。
 太陽はすっかり雲の向こうに隠れてしまった。

 これより私は茅ヶ崎まで出かけることになっている。茅ヶ崎で集会が予定されている。よりによってこんな天候になるとは思ってもいなかった。
 帰宅は本日深夜の予定。


雷注意報、竜巻注意報

2022年06月03日 13時29分30秒 | 天気と自然災害

 病院から帰宅しようと最寄りの地下鉄駅を降りたら盛んに雷鳴がしていた。北の空が暗く、横浜気象台から神奈川県東部に竜巻注意報が出ているとのメールも着信した。
 時間雨量60ミリを超える猛烈な雨の区域が東北東から西南西に流れている。私の住んでいる地域をかすめるように横浜市域の北部と川崎市域を通過している。
 さいわい雷鳴は現在聞こえなくなった。しかしまだ油断はできない。パソコンの電源は最小限の時間にして電源を早めに切りたい。必要最小限のメール作業で終了にしたい。