気ままな趣味の散歩道

趣味にまつわる話題を、デジカメ画像などを活用し郷土の写真、菜園と園芸、郵趣、版画と年賀状などを紹介してまいります。

直虎と関係ないかも?「十九首」の地

2017-04-06 16:49:40 | 「おんな城主 直虎」
 大河ドラマ「おんな城主 直虎」は興味津々で見ています。ドラマとして面白く・・・。
 すると、ドラマ終了後に関係の地が紹介され、これまでに訪問した地やいわれの地が出てきますから興味津々で毎回そこまでよく見ています。

 さて、先日の当ブログでも、3/26日に放送され、紹介された掛川の市街、掛川城や、掛川古城などとともに、最後に掛川市の「十九首」(読み方:じゅうくしょ》の地名が、「直親らが殺害された地ではないかと言われている」と紹介されました。
 この地をこれまで教えられたことと違っていたので現地へ行ってきました。

 地元では・・・「十九首」は、今を遡る千年余の昔、相馬小太郎将門(平将門)と言う武将がおり、関東一円を制覇するなど力を付け(いきさつは省略)、当時の京都にあった朝廷が将門を脅威に思い、征討軍を派遣される身となり、その軍が到着の前に叔父の平貞盛と藤原秀郷に討伐(打ち首)され、検視のため、家臣18人の首級をもって掛川で朝廷の特使と会い、橋の欄干にかけて検視を受けた後、無残にも路端に捨てられようとしたので、秀郷が十九の首級を別々に埋葬したとあります。(経過は長いので省略していますので判りにくいかも=上の小画像に云われが書かれていますから拡大してみてください)


 平将門を中心に家臣十八人の墓碑が建ています。武将名も判明しており、各人の名前も標記されています。

 時は天慶三年八月十五日でした。当時は十九ヶ所の塚があったようで、十九所と言われ、のちに十九首となったようです。

      
             (中央の将門の墓(墓碑)と家臣の墓碑)

    
             (こちらも武将名が表示されていました。) 

   
                     
※ 歴史家ではありませんので確かなことは言えませんが、地元ではこのような平将門とその家臣の墓として祀られているのが十九首の云われのようでした。














コメント
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