山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

木下恵介のまなざしを探る

2022-10-12 18:15:37 | アート・文化

 木下恵介生誕110年を記念したシンポジウムに参加した。パンフには「庶民の日常生活に潜んでいる喜び、悲しみ、怒り、哀れを冷徹なまなざしで見つめながら、数多くの人間味溢れる傑作を世に送り出し、多くの観客を魅了」した、と的確な案内が記されていた。会場は記念館二階の小さな講堂だった。聴衆は約50人ほどが参集した。

      

 登壇者は3人だった。先端を切ったのが家族の一員だった原田忍さんだった。恵介は親からのたっぷりした愛情を受けて育ったようで、親が怒ったのを聞いたことがないという。そして、貴重な手紙や写真を紹介しながら、恵介は養子をはじめとする12人の大家族をとても大切にしていたという。しかも、映画関係者ばかりか近隣の人を気軽に巻き込んでにぎやかに過ごすのを愉しんでいたのだった。恵介のまなざしの原点は、そんな優しさが映画に貫かれていたのではないかと回想する。詳細は12月に幻冬舎『木下恵介とその兄弟たち』として出版される。

               

 次は、フランス人で日本映画史の研究者であるマチュー・カペルさんだった。カペルさんは、恵介の存在を小津安二郎や溝口健二、さらには戦後の双頭だった黒澤明に比べて評論家は控えめな扱いに甘んじていた。それは世界映画史の盲点ではないかと提起する。恵介が撮ったカメラワークや演出は斬新だったが、ほかの監督はそれを踏襲こそそれ、そうした功績も見逃してはいなかったかとたたみかける。

  

 作品ごとに実験的な技法を駆使してきたその作風は、大島渚・吉田喜重監督などを育ててきたことも忘れがちではなかったか、という。そうして、人間の格差・立場に触れ、そのあたりまえの「人生の儚さや時間の残酷さ」を表現した稀有の監督だったとカペルさんは評価した。

 そうした「木下組」は、山田太一・松山善三・勅使河原博・小林正樹などの錚々たる脚本家・映画監督が育っていく。

            

 最後に、静岡文芸大の加藤裕治教授が、テレビ業界で活躍した恵介の役割をドラマ「記念樹」を紹介しながら分析。恵介が渡仏したときにテレビの可能性を発見したようだったという。1964年(昭和39年)、TBSの「木下恵介劇場」を皮切りにテレビ業界に着手し、「木下プロ」も創立して旺盛にドラマを茶の間に感動と共感の涙を送っていく。

 映画界からはブーイングもあったようだが、映画とテレビとを橋渡しした功績は大きい。木下プロを経営的に持続する厳しさはあったようだが、映画と同じく、差別・人間の弱さ・優しさなどを描いていく視点は変わらなかった。

            

 司会は、記念館の館長・村松厚さん。地元のヤマハから海外への出張経験長く、文化への造詣が深い。また、進行を担当していたタイ・シュキさんは有能な中国人だった。館長の「まなざし」の確かさが伝わってくる。こういう文化人がもっと市井で活躍していくと地域が豊かになるのだが、とうらやましく思う。

 ついでながら、たまたま中国の朱丹陽さんの木下恵介についての論文に出会う。要するに、改革開放の中国は世界第2位にはなったが、老人の孤独や人間関係の冷淡さなどがどんどん進行していく現状から、あらためて木下恵介が描いてきた映像からその現代的意味・価値を得られる、という。そういうことを提起する学生や若者はどれだけ日本にいるのだろうかと考えさせられた。

            

 松竹は恵介の言葉を紹介している。「映画監督っていうのは、本当の人間を描くために、毎日毎日考え日夜苦労しているわけです。理屈で言っても忘れちゃうけど、泣いて映画を見れば、心はいつまでも印象に残るんだと思う。それが映画監督の社会における義務だと思う。」

 珠玉の言葉だ。映像にも描かれている、温厚だが自分を曲げない監督の自負に触れた。あさましい日本の政治家・実業家に学んでほしい視点はここにある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする