たまたまテレビで放映中だった岡本太郎特集。彼は人類は進歩していないと断言した。「太陽の塔」で表現したのはそのことでもあったという。太陽の塔の裏側に黒い太陽が描いた意味はそこだ。進歩だけが独り歩きしていた万博を一人で異議申し立てをしていたのが太郎だった。
その太陽の塔のルーツは縄文文化でもあった。そこに注目してきた安田喜憲『日本神話と長江文明』(雄山閣、2015.5)を読んだ。
著者は、環境考古学の立場から世界の古代文明の花粉分析などのフィールド調査を行ってきた。その結果、砂漠化したほとんどの古代文明は森林伐採によるものであることがわかった。その理由は、煉瓦造りの燃料・牧畜の放牧場・材木の輸出・都市化・戦争などによるものだった。その結果、古代文明は滅亡していく運命となった。
それに対し縄文文明は1万年以上も続いた。それは環境を必要以上に破壊しない暮らし方があったからだ。前者は「畑作牧畜民」、後者は「稲作漁撈民」と著者はまとめる。
長江にいた民族は、「力と闘争の文明」の「畑作牧畜民」に侵略され、山岳地帯や南方に逃げ込む。長江文化を調査していた著者は、日本のイネと長江のイネも同じDNAであり、さらに長江にいた山岳民族の神話は日本の神話と似ていることを確認する。
その長江人の一部が海を渡り日本列島にやってくる。そして、長江から出土した土器や山岳民族の風習から蛇信仰の類似性や「柱」「鳥」、そして「太陽」などの造形・風習が似ているという。その日本への影響は、神社の御柱、ヤタガラス、しめ縄(雌雄のヘビの絡み合い)、日の丸などに見られるという。
いっぽう、「畑作牧畜民」は一神教をかかげ、領土を力で拡大し富を蓄積していく。それは現代における主流勢力を占め、世界情勢を形成している。岡本太郎が言うとおり、人類は進歩していないのだ。
神話の類似性についてはまだ納得はできない。著者の論調が相変わらず緻密でないのが気になる。著者は、神武天皇から9代の開化天皇までは長江派の影響があったが、10代の崇神天皇からは「畑作牧畜民」が権力を奪取したとする。しかし、それらの天皇の実在すらわかっていない。しかも、神武と崇神は同一人物だという説もある。
ただし、著者の言わんとする趣旨は大いに共感する。結論的には、「環境調和型の持続型ライフサイクルを選択した稲作漁撈民」の生き方は、「命と水の循環を維持し守る」ことにある。それは21世紀の希望・めざすものであり、その延長に「桃源郷」があり、それが「究極の生命維持装置」だとする。その視点は同感だ。
その意味で、今世紀に跋扈する弱肉強食の「畑作牧畜民」の現状をふまえて、「美と慈悲の文明」である「稲作漁撈民」の植物文明の先駆性を伝えるしかないのは確かだ。数十年前だったか、長江とその周辺の土器や青銅器の出土品の展示イベントに行ったことがある。その文様や異様な生き物の顔立などは、南米の古代文明の出土品と似ていた。土器も縄文土器ではないかと思えるほどだった。モンゴロイドが南米にまで進出した証左ではないかと確信した次第だ。同じように、著者は立命館大学で「環太平洋文明研究センター」を開設したほどだ。
ちなみに、長江文明は、揚子江に偏在した紀元前14000~1000年前に繁栄した国だったが、黄河流域の漢民族に滅ぼされた。