山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

冬のきのこはエライ!

2013-12-21 18:26:34 | 食彩・山菜・きのこ
 久しぶりに裏の畑に出る。
 原木シイタケが気になる。
 なんとか踏ん張って実をつけていた。

                      
 知りあいの所ではどんどん大きくなっているという情報があったが、わが家は日当たりが一日中悪い所にあるし、寒さが厳しい。
 小さな実をつけているだけでもエライということになる。

     
  隣の原木ナメコを見たら、2本だけがんばっていた。
 冬のさなかでもじっくり実を大きくしている姿には頭が下がる。

                    
 ほだ木を伐ってきた道草山のコナラの枯葉が強風で集合していた。
 いつもこの枯葉を堆肥として利用している。
 コナラの林がわが家の食卓に貢献している。

    
 それは林産物のきのこだけではなく、土壌作りにも貢献している。
 山・畑・人間がささやかに循環しているのを実感できる。

 いまNHKのスタッフが書いた『里山資本主義』という本を読み始めた。
 自分が今やっていることの小さな意味を裏付けてくれる内容だ。
 ひょっとすると、「時代の先端を奔っているのかも」と胸を張ってみた。
 すると、冷ややかな娘の笑いが天から降臨してきた!?
 

                       
 
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街のサザンカ・ハゼノキのたくましさ

2013-12-20 21:32:26 | 路上観察
 いつもは車で通り過ぎてしまう場末の道を歩く。
 歩道の街路樹にしたいのだろうが、きわめて日陰の場所だ。
 したがって、成長の悪いサザンカや朽ちてしまったサザンカも多かった。

    
 そんななかでもひときわ花を満開させているサザンカがあった。
 思わず近寄って「えらいなー」と声を掛けた。
 ふだんは人が歩いている姿は殆んど見たことがない歩道なのだ。

                     
 もう一本、赤いサザンカもあった。
 これも見事だった。
 おそらく、道の殺風景な両側を紅白のサザンカで飾ろうとしたのに違いない。
 この2本だけでもオイラの心は温かくなった。

    
 そのうちに、実生で育ったらしい「ハゼノキ」の紅葉に出会った。
 ハゼノキは中山間地によく見られる。
 モミジとまじって紅葉の仲間入りをしている。

 
 ハゼノキの実は、むかしからロウの原料として大きな役割があった。
 実が扁平なのが特徴だ。
 冬の寒さにめげず、青い空を切り裂くように生きる誇りを磨いている。

 サザンカもハゼノキも、劣悪な環境の中でもいのちを全開している姿に背中を押される。

                      
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高畑勲の「かぐや姫」の迫力

2013-12-19 19:11:14 | アート・文化
 じつは、宮崎駿「風立ちぬ」を観た同じ日に、高畑勲監督のアニメ「かぐや姫の物語」を観る。
 ストーリーは「竹取物語」そのものを忠実に描いているが、監督がいちばん言いたいことが貫かれている。
 「竹取物語」は当時の権力中枢の人物をシニカルに批判している傑作だ。
 かぐや姫はなぜ地球にやってきたのか。

                    
 それは、「地球に憧れた」という罪だった。
 罰として地球に派遣されたという解釈に高畑監督の秀逸さが光る。

 現実の地球は豊かな自然に恵まれ、そのなかで姫は伸び伸びと育っていく。
 しかし、現実の人間の世界は汚毒に満ちていた。
 葛藤するかぐや姫。
 その葛藤する様子が水墨画調の余白を活かした画像がとくにすばらしい。

    
 「風立ちぬ」と「かぐや姫」の作風はじつに対照的だった。
 「風立ちぬ」は画面の隅々に宮崎駿の職人肌が貫徹している。
 一方「かぐや姫」は、主要なものだけ描いて、あとは捨象するという伝統画風。
 「宮崎vs高畑」の横綱相撲は見ごたえあるものだった。

 「かぐや姫」は、高畑勲作品の代表作といって間違いない仕上がりだ。
 かぐや姫の葛藤は、都会と田舎との葛藤のように思えた。
 二階堂和美の歌と歌詞がまた心を打つ。 

 あなたがくれた ぬくもりが  深く深く
 今 遥かな時を越え 充ち渡っていく

 じっと心に 灯す情熱の炎も 
 そっと傷をさする 悲しみの淵に

 今のすべては 過去のすべて
 必ずまた会える 懐かしい場所で

 今のすべては 未来の希望  
 必ず憶えている いのちの記憶

        (「いのちの記憶」抜粋) 
 
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「風たちぬ」を観る・読む

2013-12-18 17:53:09 | アート・文化
 先日、宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」を観る機会があった。
 宮崎駿最後の入魂の作品らしくどの場面も手抜きのない職人技に唸ってしまう。
 難しい関東大震災の描き方も実に丁寧で感嘆するばかり。 
 生真面目な技術者の主人公が愛を知っていく過程の豊かさも見ものだ。

   
 当時世界一の性能として注目されたゼロ戦誕生は、そのままアニメ制作と似ているところがある。
 「生きねば」というサブタイトルは、先日読んだ百田尚樹の『永遠のゼロ』と通じる。

                      
 むかし、堀辰雄の『風たちぬ』を読んだことがあったが、あまり印象に残らなかった。
 今回もう一度読んでみて、これは時代背景を踏まえて読むとその価値が出てくると思えた。
 出版された1930年代といえば、国もマスコミも国民も戦時体制へとますます突入していく時代だ。

   
 しかし、堀辰雄の小説はそういう背景をあえて削除している。
 それだけにピュアな二人の愛が増幅されていく。
 宮崎駿の「風たちぬ」は戦時体制の中で、何を大切に生きていくかが示されている気がしてならない。
 いやそれは、現代の目に見えない閉塞状況でも同じことを問うているのではないかと思う。
 だから、「いざ、生きめやも」、つまり「生きねば」ということになる。
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ヤドリキ発見

2013-12-17 20:17:37 | 路上観察
 神社の近くの枯葉の中に青い葉が紛れていた。
 「ひょっとすると」
 上を見た。

                   
 それは鳥の巣のようだった。
 間違いなく、それは「ヤドリキ」だった。
 

     
 大木のケヤキに寄生するヤドリキだった。
 このへんではめったに見かけない大発見だ。
 
        
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交通看板がかくれんぼ!?

2013-12-16 21:06:54 | 路上観察
 風は冷たいが、空はさわやかだ。
 大きな屋敷の玄関そばに、交通標識がかくれんぼしていた。
 見事なカイズカイブキの生垣の中にめり込んでいるように見える。

                       
 表から見てみると、「駐車禁止」の標識だった。
 これだと、半分くらいなら駐車してもいいのかな?
 どちらにせよ、このくらい謙虚な交通標識はすばらしい。
 広い道路のうえに見事な家の前だけに、駐車したくなるのかなー。

      
 「カイズカイブキ」(ヒノキ科)の名前の「カイズカ」は、大阪の貝塚からきているようだ。
 「イブキ」は、滋賀・岐阜の県境の「伊吹山」からきている。
 なお、梨のそばに植えると、「赤星病」を媒介するので産地では「赤星病防止条例」で規制されている。

 それにしても、これだけのカイズカイブキを生垣にする豪勢さがすばらしい。
 
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「供養塔」を次々発見したが

2013-12-15 22:09:43 | 石仏・石造物
 町を歩くと、春は花や若芽が気になるが冬は石造物が気になる。
 このところ、「供養塔」に出会うことが多くなってきた。
 はじめは何のための供養かがわからなかったが、これは「巡礼供養塔」であるのがわかってきた。

 むかし庄屋らしき門前には、文久元年(1861年)銘があり、「天下泰平・国土安穏」と彫られた「四国・西国・秩父・坂東・供養塔」と刻まれている石塔があった。

    
 観世音菩薩は33の姿に変化して民衆を救うということから、坂東・秩父・西国では33の観音霊場(約1000km)が設定される。(四国は88箇所)
 江戸時代に興隆したこの巡礼は参拝が成就されるとその証として地元に「供養塔」が建立される。


 その門前から5分ほどの所には、観音像のある「西国供養塔」(天保14年・1843年)があった。
 観音像が彫られている供養塔は初めて見る。

 ここにも、「天下泰平・国土安穏」と刻印され、わきに、「秩父・坂東」と書かれている。
 どうやら、村落毎に代表を「講」組織が派遣する仕組みがあったようだ。

                              
 さらには、シュロに囲まれた立派な「四国・西国・秩父・坂東・供養塔」(天保9年・1838年)も発見した。
 ここは、「江戸・大山」道への旅路の分岐点らしく、大きさも飾りも立派なものだった。

        
 右面には「湯殿山・羽黒山・月山」も刻印されているので、修験道の白装束の人も通ったのかもしれない。
 旅人は命がけでもあったので、供養塔はその旅の無事を祈願する意味もあったに違いない。
 同時に、自由ではなかった旅行が信仰の名の下でできたメリットも大きい。

                       
 最後に見たのは、「四国・西国・秩父・坂東」の銘のある供養塔だった。
 これは大正11年(1921年)建立のいちばん新しいものだ。
 集落はこのころまで存立していたのが類推できる。

 むしろ現代のほうが集落の維持といい、コミュニティーが崩壊しているわけだから、歴史の進歩・発展とは微妙なものだ。
 巡礼供養塔はそんな村落共同体の絆を表現しているのかもしれない。
 



 

 
 
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百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』を読む

2013-12-14 18:54:51 | 読書
 ベストセラーを出し続けている百田尚樹(ヒャクタナオキ)の作品に注目していたところ、『永遠のゼロ』の映画の予告編を見たうえに、娘が友達からその文庫本を借りてきた。
 すぐさま横取りして暇をみては読み込む。

 ゼロ戦の飛行兵であった主人公宮部久蔵の死を孫たちが究明していく物語だ。
 作者は詳細なデータを駆使して帝国海軍の体質を次々告発していく。
 同時に主人公の「生きる」固執を通して閉塞された時代をどう生きるべきかを読者に問いかける。

     
 そのため物語は戦記物に終わらず、最後の展開に感動の決定打を打つ。
 オイラも涙をいくどもこらえながら行間に向かう。
 「解説」を書いた俳優児玉清は読み終えて号泣をこらえられなかったほどだ。
 そのくらい人間の清らかさというものを汚毒の世界から磨き上げている作品でもある。

                       
 戦争に踏み込んでしまった大きな原因は、それぞれの立場のメンツ・建て前から付和雷同していく傲慢な体質にあるかと思う。
 「志願兵」ということがじつはそうせざるをえない周囲の雰囲気。
 こうした「空気を読む」陥穽は、現代でもなお引き継がれている。

 つくづく、孤立を恐れずさわやかに生きる生き方をあらたに提示された小説だった。
 マスメディアはこの視点を根底から欠落したまま視聴率競争に明け暮れている。

 ときどき良心的な番組があっても即席のお笑いバラエティーで簡単にかき消されてしまう。
 だからこそ、国民一人ひとりの自立した覚醒が鍵となる。
 そんな静かな願いと怒りを秘めた宮部の生き方。
 それを熟成して書き上げた百田尚樹の作品にこれからも注目していきたい。
                 (講談社文庫・2009.7.)
 

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茶道具が彫られた石灯籠

2013-12-13 21:04:45 | 石仏・石造物
 健康維持のため街なかを歩いてみる。
 とあるお寺でお茶道具が彫られている石灯籠を発見。
 京都の善導寺の茶庭にあった石灯籠がモデルになっているという。
 茶道具の「五徳」と「茶碗・茶筅」が浮き出ている。

    
 この「善導寺型」石灯籠は全体的にはずんぐりしているのが特徴のようだ。
 「傘」のぶっとい「蕨手」や寸胴の「竿」、さらには「中台」のハート型模様が斬新だ。
 茶道具は、「なつめ」と「茶杓」の面と、「鉄瓶」とが見られた。

                         
 意外だったのが、「梅と鶯」の面があったこと。
 これは茶道具にこだわらない作り手の創作なのだろうか。
 「春日型燈籠」は鹿・雲・三笠山・格子戸とパターンが決まっているが、「善導寺型」はどのような茶道具を彫るかは自由のようだ。

      
 ついでに、豚カツ屋の庭にある「善導寺型」燈籠を見に行く。
 「鉄瓶」は確認できたが、もう一つの面は「火鉢・火箸」か「茶碗・茶杓」かが判らない。

                  
 これは、「五徳」はわかるが、もう一つは「茶碗」と「茶筅」のように思える。
 本来は茶庭にあるべきものだろうが、この二つを見る限り場所を選ばない現状のようだ。
 同じ石灯籠のなかでも「善導寺型」石灯籠は個性的なところから、現在なお人気があるようだ。
 
  
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「ペコロスの母に会いに行く」を見る・読む

2013-12-12 17:46:00 | アート・文化
 認知症の母との悲しくも心温まる漫画ということで注目していたが、娘が「とってもいいよ」と言うのでいっしょに映画を見に行く。
 主演は赤木春恵だが、89歳の高齢主演女優ということでギネス認定された。

 その息子役は長崎出身の岩松了、そのまわりを竹中直人、温水洋一など芸達者な脇役で固めている。
 監督は山田洋次の弟子の「森崎東」。
 期待通り監督は認知症の切なさを笑いで拓いていく。

                    
 いくつかの書店で原作漫画(岡野雄一・西日本新聞社・2012.7)を探したが見つからず、ネットで入手する。
酒乱で幻聴・幻覚の夫の暴力や赤貧の暮らしの深刻さにもかかわらず、「ウチがボケたけん、父ちゃん(十数年前に死亡)が現れたとなら、ボケるとも悪か事ばかりじゃなかかもしれん」とつぶやく母。

     
 岡野さんの作画のぬくもりは同時に地獄を達観した温かさが全編を貫いている。

 このような温かさは、暴れる父の悲しさを知ったこと、母の中に生きている父を知ったこと、夫からの苦痛にもかかわらず人生を肯定的に生きている母、みずからも父子家庭となった疵、こうした地獄から優しさが生まれる。

 ちなみに、「ペコロス」とはミニタマネギのことで、岡野さんの愛称ということだ。
 切なくもうららかな人生はこのペコロスのような小宇宙のなかにすべてが詰まっているのかもしれない。
 

 
 
 
 
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