田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

父の随筆(パソコンの底から出てきました)

2008-09-21 13:06:50 | 戦前・戦中の日々
今日は、朝から雨、晴耕雨読といこうと、パソコンの中の、古いデータを見るともなく見ていると、一年前に亡くなった父の古い原稿をたぶん、妻が、ワードの練習に打ち込んだものがありました。
私は読んだ記憶が無い。
幹部候補生になった経緯を綴ったもの。
7年前、亡くなる6年前で80才になる直前に書いたものと思われる。
竹田農園で私とつきあってくれている、江藤正翁と同じ生まれ年で、終戦も台湾で迎えたというのも同じ、僅かの差で、生き残ったというのも同じの人生だったと改めて、知りました。
ワードで6ページとやや長いです。
ご参考。



運命の一瞬 - 安藤中尉

第一章

 昭和十八年(1943)七月、私達初年兵の観測班は既に要地防空隊として神戸に展開している本隊に追及した。
わが中部軍七三部隊山岡隊安田中隊は神戸市兵庫区三菱重工業和田岬造船所内の突堤上に陣地を構築していた。
兵舎の屋上には七糎高射砲三門が据えられていた。
この陣地に来てからは、屯営で受けた体罰的制裁は全くなかったが、実戦に即した訓練は毎日激しく繰り返された。
 朝夕今治・神戸航路の定期船を陣地から眺めては郷愁の念に駆られていた。
私は残念ながらこの和田岬陣地に来てからは初年兵観測班の員数外に置かれる「ダメな兵隊」になっていた。
理由は色々あるが他日又語るときがあるだろう。
八月になって泉南の貝塚海岸で山岡部隊の高射砲実弾射撃演習が行われたが、初年兵の中で私だけ一人が、和田岬陣地留守隊の一人に入れられたのである。
いかに無視された「ダメ兵隊」であったかが知れる。
そして、二日目になって中隊長安田中尉の「如何なる初年兵も一度は実弾射撃の体験をさせろ。」の一言で、私はやっとこさ貝塚海岸に中隊長のお情けで向うことができたのである。
私がどんなにみじめな気分で、和田岬から貝塚に向う軍用自動貨車の古年次兵(こねんじへい)の中にたった一人のダメな員数外初年兵としてポツンと乗ったか。
もう落ち込みに落ち込んだのである。
同乗の古年次兵は「こいつがダメな初年兵か。」と言わんばかりに私をジロジロ眺めていた。
私には本当に針のむしろであった。


第二章
 この貝塚の射撃演習が終了してすぐに、山岡部隊の陸軍兵科幹部候補生の採用試験が行われた。
当時の神戸防空隊の配備は
(1) 湊川公園に山岡部隊本部
(2) 摩耶山中腹371高地   砲隊 一ケ中隊
(3) 灘区都賀川口      砲隊 一ケ中隊
(4) 兵庫区和田岬      砲隊 一ケ中隊
(5) 刈藻島(かるもじま)  砲隊 一ケ中隊
 他に照空(しょうくう)中隊が布陣していた。
 試験場は湊川公園近くの湊川国民学校である。
小学校は当時国民学校と呼ばれていた。
当日、安田隊の砲隊、観測班の初年兵有資格者が集合、試験場に向った。
今まで初年兵はこの和田岬陣地から外に出たことはなかった。
しかも、引率者はいなかった。
初年兵だけの外出である。
指揮は金子博がとった。
この日は日本晴れ。
素晴らしい好天気であった。
三菱造船所の正門には保安詰所が設けられている。
この門を出る時は部隊敬礼を行って通過。
歩調をとる。
カツカツと軍靴の響きが高くなる。
折りから附近にいた造船所員が私達の行進を眺める。
「ワッ、見事な兵隊さんだ・・・」と言った声が私達の耳に入った。
地方の人がみとれる程私達の行進は見事だったのである。
この声を耳にした初年兵一同の足音が更に高くなり晴れがましい思いを経験した。
 この頃、神戸市電は神戸防空隊の兵隊の乗車は無料にしていた。
湊川国民学校に到着。
丁度夏休みのこととて国民学校の校庭には児童の姿は一人もなく、夏の暑い日差しがコンクリート造りの白い校舎に照り映えて白々と私達の眼に厳しかった。
各隊から参集した多くの初年兵達は各教室に収容され緊張した顔で学科の筆記試験に臨んだ。


第三章
 二日目は面接試験である。
私達は控室にて待機。
面接室は別教室に設けられ、一人一人が呼び入れられた。
面接を終えた兵隊達は控室に帰ってもその様子を語る者はいなかった。
この時、控室に監督者がいたかどうか今は思い出せない。
しかし、私語がなかったことから推すと多分いたのであろう。
段々と進んで、いよいよ私の番である。
 中隊随一のダメな兵隊とレッテルのはられた私も幹部候補生に採用されたいとは思っていたが、先はその希望も無為に終わるだろうと予想していたから、他の初年兵程の緊張はしていなかった。
そのかわりに何ヶ月振りかに陣地の外に初年兵だけで外出できるのが嬉しくて途中の三菱造船所内の風景から私の職場であった愛媛県新居浜市の住友機械製作KKを偲んでいた。
住友機械には徴用工も入れて五千人が働いていた。
三菱造船所の規模に比べてもそう遜色はなかった。
神戸市電の沿線風景も市民の姿も本当になつかしかった。
湊川公園の部隊本部前にはビオフェルミンの大きな広告塔が立っていた。
 さて、私の前の番の初年兵が終わって帰って来た。
どうでもええわいと思っている試験でもヒョッとしたらヒョッとするかもしれんと思っていると矢張り体が固くなる。
控室を廊下に出る。無人である。
すぐ隣の面接室の前に立って大きく深呼吸をする。
いや溜息をついたのかも知れない。
静かに引戸を開けると右側には大きな幕が張られて仕切られ、私達の通路がニ米巾程に作られている。
そして、その正面には大きな鏡が見える。
廊下の床から天井まで届く大きな鏡である。
引戸を開けた私の全身が写っている。
フウン、わしもそう捨てたもんではないなあと鏡の中の軍服姿の私を見つめた。
その鏡の前を右に入ると面接室である。
私は歩みながら鏡の中の服装を点検する。
襟布(えりふ)はいいか、釦はいいか、帯革(たいかく)は所定の位置にあるか、帯革は四ツ目と五ツ目の釦の間が定位である。
帯革はゆるんでいないか、剣吊り釦は外れていないか,手を添えて急いで点検。「ヨシ」。
私は脱帽して官姓名を名乗り、十五度の陸軍礼式をして面接室に入る。
中はガランとして何もなかった。
中央に生徒机が一脚、試験委員の三人の将校が座っている。
それから次々と質問が三人から交互に放たれる。
何とかスラスラとは行かなかったが、大声で答える。
最後に大東亜戦争への覚悟を問われる。
もう此の答は決まっている。「日本民族百年の大計の為、米英を打ち破って東洋平和、世界平和の礎、捨石になります。」と。
滅私奉公のみ叫ばれている時代である。
滅私とは、我が身を滅することではない。
私欲,私情、私利、私心などの個人の利害に優先して公即ち日本国家、民族、社会の為に力を尽くすことである。
 「ウン。」
と将校達がうなずいた。
私は多分、大真面目で大声を張り上げながら、つまりながらも叫んでいたのであろう。
この時代の若者は私のように思っている者が多かったのである。
戦場に立つこと即ち死である。それでも、その死を超えて戦場に向ったのである。現代日本人の中には「死ぬことが判っているのに何故銃を把ったのか。何故拒否しないのか。
何故逃げないのか。
その時代の指導者にうまく騙されていたのだ。」という人がいる。
私はこの人々に対しては無言である。
 さて、三人の将校達は私を見て笑っていた。
面接が終わってから試験委員長安藤中尉から講評があった。その一節に、・・・・
 「あの大鏡は何のために置かれたのか。残念ながら、そこに思いを馳せる者はいなかった。
但し一人だけ活用した者がいる。
面接する前に服装の点検を行った者は、たった一人である。・・・・・」と。
不意に意外の環境下に置かれた個人の行動、特に独断専行が観察されたのである。
 こうして試験は終わった。私は殆んどこの試験結果は期待していなかった。
帰隊したら隊舎屋上の陣地では、いつもの通り初年兵の訓練が続いている。
砲隊班は早速訓練に参加した。
観測班の私は少しでも参加時間が遅れるようにと、下でグズグズしていた。
ヒョイと上を見上げると、初年兵班長の西迫(にしさこ)軍曹がむつかしい顔をして私を眺めている。
イヤ、ビックリ。
コイツはイカンとあわてて外出套を着替えて屋上に駆け上がった。
軍曹が「下で何をしていた。」と詰問する。
もう破れかぶれである。
「ハイッ。六甲おろしの涼しい海
風に吹かれてボーッとしておりました。」
周りにいた古年次兵や初年兵が一斉に私の方を振り向いたのがわかる。
こんなことは初年兵の私の言うべき言葉ではない。
「風に吹かれてボーッとしていたのであろう。」とは班長や班付古年次兵からよく言われていたのである。
加古川の屯営では「加古川の風・・・」であった。
 九月に入って命令が出た。午後九時の日夕点呼で連隊命令が下達された。
   金子 博   愛媛  観測
   早川一也   徳島  砲隊  
   木口常三   茨城  砲隊
   金森秀雄   徳島  砲隊
   細川清水   高知  砲隊
   竹田光雄   愛媛  観測
私は安田中隊の最下位で幹部候補生に採用された。
命令伝達が終わって外に出ると、古年次兵の話声が聞こえてきた。
「竹田ってありゃ何だ。ドンナ奴だ。」
「観測におろが。」
「あいつか。あんな奴が・・・もう世も末じゃ。」
 私もそう思う。
私は笑っている安藤中尉を思い出した。
大鏡の前の服装点検で安藤中尉が私を拾い上げたのだ。だが、中隊長以下誰も知らないから、私の合格を不思議がるのだ。


第四章

 幹部候補生教育が早速始められる。
都賀川砲隊陣地の近くに神戸製鋼所の二階建ビル一棟が提供された。
教官は網本義包(よしかね)中尉で、幹候班長として一人伍長がきた。
私は今この班長の名前を忘れている。
各砲隊、照空隊から集合して来た。
何人いたか。
これも忘れている。
しかし、九月から一月にかけて行われた幹候教育は私の軍隊生活の中で最も楽しかった時代である。
ここでは反対教育が行われた。
観測・砲隊の反対教育である。
従って、私は観測兵であるから砲隊教育を受けた。
この幹候隊教育が終わると甲乙分離の試験がある。
甲種幹部候補生は予備役将校に、乙種幹部候補生は下士官になる道が開かれる。
 幹候隊班長には候補生の中から二名宛当番がつく。
この当番にあたった私は或日、班長個室の掃除に向った日、班長は留守であった。班長の机の上には、班長の候補生に対する評価表が開かれたまま置かれていた。
最後には各候補生の総合評価がしるされていた。
見るともなく見てみると、私の評価は「下士官適」と大きく書かれていた。
「ヤッパリナ」と私は納得した。
 甲乙分離試験が学科・術科ともに完了したとき、砲隊・観測の全候補生は七糎高射砲の周囲に集められた。
砲側に立ったのは安藤中尉である。
この時には各候補生は自分の成績はほぼ積算して自分の序列を胸算用していたのだが、私には無関係である。
何しろ、班長の評価は「下士官適」だからな。
この班長の評価が重要なことは勿論である。
 私は安藤中尉を取り囲んだ候補生の輪の最後列にいた。
もう乙種幹部候補生になることは間違いない。
甲なんかとてもと思っていた。
安藤中尉は色々な質問をした最後に七糎高射砲の部分名を質問した。
ところが誰も答える者がいなかった。
暫らく沈黙の静かな時間が流れる。
砲隊の連中には分かりすぎた質問である。
安藤中尉が皮肉な声なき笑いを顔に浮かべた。
成績の良い連中はここでしくじったらと考えて答を渋ったのである。
安藤中尉の笑いはこの候補生の心理を見透かしていたのである。
「今畜生、これが黙っておれるか。」私は大声で「ハイッ」と挙手した。
それから二問・三問と続いたが、結局は誰も答えず、私が全部答えた。
当否は別である。
 「ウン」安藤中尉が頷いた。
私は大声で全部答えて、甲になりたい奴は何してんだと心の中でわめいていた。「そこの候補生は誰だ。」
「ハイッ竹田候補生」
「ウン」と顔を縦に大きく振った安藤中尉の頷いた笑顔が深く私の胸に印象づけられた。


第五章

 やがて甲乙分離の結果が発令された。
昭和十八年度山岡部隊甲種幹部候補生は、金子博、小西二郎、早川一也、木口常三、金森秀雄、竹田光雄、六名である。
私はビックリ仰天である。
山岡部隊甲種幹部候補生六名のうち五名が安田隊である。
小西は刈凛島の砲隊である。因に小西は宇和島の出身である。
 戦後、復員したとき今治から一緒に加古川高射砲隊に入隊した矢野孝基(兵長で復員)-山岡部隊照空中隊に在隊―が、
「お前が幹部候補生に採用された命令を聞いた時はビックリ仰天した。」と私の顔をマジマジと眺めてあきれていた。
器用に世間を渡る彼の人生では、不器用な私など馬鹿の代表だと思っている。
彼には私の甲種幹部候補生合格が理解できないのだ。
 とにかく、安田隊のダメ兵隊,観測兵としては員数外の兵隊が二等兵として入隊、一年八ヶ月で陸軍予備役少尉に任官したんだからな。
誰よりも私自身が驚いていたのである。
 この原因は、
(1)鏡の前の服装点検 
(2)甲乙分離試験最後の三問への応答であると私は思っている。
安藤中尉が大いに干与している。私は安藤中尉の人を見る目を裏切れないと思った。
人の運命は、単純なこれだけで左右されることがある。
私のこの二つの事項が安藤中尉に取り上げられなかったならば、私は一兵卆として、ダメなボヤスケ兵隊として南方戦線にトックに放り出されていただろう。
 私が神戸防空隊から南方派遣軍に転属を命令され一隊を引率神戸駅を出発した時、見送ってくれた山岡部隊将校連の中に、相変わらず微笑をたたえた安藤中尉の姿があった。
 さらば、安藤中尉。
 昭和十九年も押し詰まった十二月七日の夕暮れであった。



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2007/10/12

2007-10-12 23:44:56 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。

以前、父が亡くなった日(7/19)に「進軍ラッパ」という父の書いた思い出話を
ブログでご紹介しました。
(http://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/d/20070720)
父が小学校6年の時の遠足の思い出で、先頭を行く富田紫郎少年の吹く進軍ラッパに励まされながら、63人の少年達が、疲れた級友を支えて、帰路についた話です。

この時、進軍ラッパを吹いた、富田氏のお孫さんから、書き込みのコメントを
いただき、驚きました。
更に、富田紫郎氏ご本人からも、コメントをいただき、75年前の、四国今治の勇敢で優しい63人の少年達と先生とが、すぐそばに居るように感じました。
以下、コメントご紹介します。

(富田紫郎様のお孫さんの曽我部氏からのコメント)
富田 紫郎は僕の偉大なる祖父です。
現在、今治に健在ですが、この進軍ラッパを是非、祖父に
プリントアウトして送ろうと思います。
この話を聞いて、すごく感激しています。
ありがとうございました。
今、病気がちな祖父も大変喜んでくれると思います。
本当にありがとうございます。
もし、よろしければ、お父様のお名前を教えていただけないでしょうか。


(私、竹田から曽我部氏へのお返事)
始めまして。
進軍ラッパの話、私も励まされる話です。
父の名前は、竹田光雄といいます。多分、お祖父さんは覚えているのではないかと思います。仲のよい仲間だったようで、今治国際ホテルの前で、今も自転車屋さんを営んでいる、渡辺さんも、同級生だそうです。
父が亡くなって、21日後に今治で亡くなった、私の母の葬儀にも来てくれました。


(富田紫郎様からのコメント)
竹田さま
進軍ラッパを吹いた若き日の思い出が懐かしいです。
当時の頃の生活が走馬灯の如く思い出され、その世界にしばし浸ることができました。
この記事は私にとって、誠に貴重な記事でございます。
よく当時のことを思い出されたことと、感心するばかりです。
ありがとうございました。 

富田紫郎


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えにし 神戸の赤い糸(2007/8/14)

2007-08-14 16:52:46 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。

父が7/19日に亡くなり、時間の問題と医者から告げられていた母も、郷里四国今治の病院で8/10に亡くなりました。
畑仕事の予定も、8/13の関門花火大会を船(フェリーボート)から見物の予定もすべてキャンセル。
今日、葬儀を終えて、九州の我が家に戻ってきました。
あすから、畑仕事と温泉三昧再開。
釣りは9月からか。

(一人では)
妻は何ヶ月か前、入院中の母の話題になって、「私は自分の父も母も看取れなかったので、あんたのお母さんは一人では死なせない」と話したことがあり、気持ちだけでもサンキューと思ったことがありました。
8/10日はちょうど妻が今治の母の見舞いに行っており、息を引き取る瞬間まで看病してくれました。
直後に妻から来たメールは「タイトル 死亡 本文 9時23分」。

(21日)
父が亡くなった後、四国に行き、母に父の死を伝えようかと思いましたが、手を握ると目を開けるだけで、話も出来ず、耳も聞こえない。
伝えずじまい。
ただ無意味に生きているだけだと内心思っていました。
お通夜の夜に、兄妹、甥姪と雑談してまして、父が亡くなって何日生きたのかと計算してみると21日。
50年前、私の妹が肺炎で亡くなり、「名前が3月7日に生まれたので、語呂を合わせて美奈にしたら、3x7の21日目に亡くなった」母が嘆いてたのを思い出しました。
父が亡くなってから、この幼くして亡くした美奈チャンと同じ、しゃべれず、寝返りも打てずで、同じ21日を生きて、私たちに早く逝った妹を思い出させたのかも。
また、父と母には子供が4人、孫10人、それぞれの配偶者も入れると21人。
この一人一人に毎日達者でと念じながら21日で逝ったのかも。
最後の21日間もしっかり働いて母は逝ったようです。

(思い出話)
告別式で喪主は長男の私で、最後に挨拶ということで、

①7歳の頃、朝学校に行こうとすると、新しい黒い運動靴を母が持ち出してきて、これを履きなさいと。
今なら安物の運動靴だが、当時は貴重品。
穴だらけの靴を脱いで、新しい靴に私のまだ小さい足を入れるとピッタリで、私は大喜び、母は得意。
母が得意になってるので、私はもっと喜び、母は益々誇らしくで、世界で一番満足した子供と誇らしい母親が出来上がった。
以来、50年、これほど物をもらって喜んだ事はない。
この黒い運動靴に十分満足して今まで物がもっと欲しいと思ったことはない。

②10歳の頃、風邪で近所の病院でペニシリンの注射を打ってもらい、寝ていると、足が痒い。
母に言うと発疹が出ている、ペニシリンアレルギーかもと、血相を変えて、私をおぶって、300メートル程離れた病院にダッシュ。
私はすでに身長130センチ、母は小柄で140センチ。
どこにこんな力があるのかと、力強く弾む母の肩にしがみついて、驚いたり道行く人か振り向くので恥ずかしがったり。

③これも10歳の頃、近所の遊び仲間3人でどぶ川にはいって遊んでいたが、何かのひょうしに仲間外れで、半べそでトボトボ我が家に。
路地に母がいて、私に「どうしたん」と。
母の顔を見、声を聞くと、涙ボロボロ、オイオイ大声で泣いて、心の中の滓のようなものがすっかり出尽くして、スッキリ。
このスッキリ感は、50年近くたった今も続いている。

こんな事を、父の葬儀の時と同じようにボソボソとしゃべりました。

父が亡くなる数年前に書き散らした文章に、母との結婚に至るまでの思い出話がありました。以下がそれ。400字詰め原稿用紙12枚で、読むのには忍耐が必要。貧しいが活気と希望のある終戦時の雰囲気が伝わってきます

えにし 神戸の赤い糸

第一章

 昭和十九年正月、陸軍兵科甲種幹部候補生を命ぜられた直後に帰郷休暇を与えられた三日間を終わり、帰隊のため神戸三宮元町駅に降り立ったのは午後九時ごろであった。
帰隊門限は午後十二時である。
まだ時間はあるし急いで帰る気にもならず、何とはなしに駅前をブラブラしていると、同じ中隊出身の徳島の早川一也、金森秀雄の二人に出会った。
二人も私と同じような気持ちでフラツイテいたのである。
ヤアヤアヤア・・・で合流したが、戦時中のこととて町の店の大戸はおろされて、唯もう暗がりと静寂があるばかりで人影も全くなかった。
ハーテどうするかいなあと三人とも溜息をつきながら阪神三宮駅の前から西にガード沿いに歩き出した。
がなんにもありはせん。
唯闇があるばかり。
ところが、前方に二つ三つとほのかな灯が見える。
なんだあれは。期せずして三人の足が速くなる。
近づいて見ると、小さな屋台にローソクをともした町の易者さんである。
こんな所で商売になるんかいな。
見渡す限り通行人の気配はない。
なーんだとガッカリしたが、待てよと一人が声をかけた。
わしらこれから戦争に行ってどうなるんかいなあ。
みてもらおうよ・・・ほかに当てもない後の二人もそうだなあと、一人の易者を取り囲んだ。
早川・金森とみてもらったが、易者が何を言ったか、私はすっかり忘れてしまった。
多分あんたの武運は強いよ、無事生還疑いなしだ位のことだったと思うんだが、二人がニコニコしたことだけは憶えている。
さて私の番だ。
私の手相を天眼鏡をかざして見ている。私はどうせ同じ事言われるんだろうな位に軽い気持ちでいた。
ところがところである。易者はニコリともせず徐に小声で・・・

「あんたは結婚した最初の嫁さんを帰したりしたら,あんたの一生はめちゃめちゃ破滅の人生を送ることになる。」

思いがけぬ託宣に、こっちはビックリ唖然。
この時、早川と金森は二人で何か話していて後向きである。
易者はこれ切りで何も言わない。
肝腎の私の戦場の運命はどうなるんかいなと易者の顔を見たが、それっきりダンマリ。
ハハア、これ以上は特別見料がいるんだなと合点して、そこに書かれていた最低の見料を払って、三人ともサヨナラをした。
わしは嫁さんが貰えるんだということは、生きて帰れるんだと理解。
自分のいい方に解釈して、「今日はいいこと聞いた。」と心を明るくした。
私はこれが私に与えた易者の凶を吉に変える重大な警告だと悟らなんだ。
何しろ、その頃の軍務は楽ではなかったからなあ。
この一月に六十三㎏あった体重は、八月十五日陸軍機甲整備学校を卒業した時には五十二㎏に減っていたんだからな。昭和十八年四月入営した二等兵は幹部候補生に採用されてからは、兵ではなく候補生として兵の階級を与えられた。
八月一等兵の階級、十月上等兵の階級、翌一月伍長の階級、六月軍曹の階級、八月曹長の階級を与えられ兵科見習士官を命ぜられ、翌年一月十日任陸軍少尉、予備役編入、即日応召といったスケジュールだ。
それから南方総軍司令部転属、ビルマ方面軍配備で出征の途についたが、台湾高尾で沈没。
台湾軍編入あとは毎日毎日飛来する米軍機のP51・P38・B24・B25・B28の対応に追われた。
何しろ台湾軍で戦闘しているのは、目下私達防空隊だけだからな。

第二章

 昭和二十年(1945)八月十五日、正午、天皇陛下のラジオ放送による御言葉を聞くために大隊本部にて大隊長以下整列、つつしんで拝聴したのであるが、雑音が入って天皇の御声を聞き取れなかった。
八月九日、ソ連の対日宣戦が伝えられていたので、大隊長は「各員、戦局の重大さに向って尚覚悟を新たにして奮励せよ。」訓示して一同解散。
各自の業務に向った。
この日の空は抜けるように青く、そよ風も吹かず、ジリジリ照り付ける日差しに汗を流していた。
十六日は普段通り、十七日午前中、所要物資積み込みのため桃園街に出張した車が空車で帰って来た。
どうしたんだと尋ねると自動車兵は無言で操縦席の窓から一葉の新聞紙を差し出した。
台湾新聞である。
一面に大きく大詔が載せられている。
早速井ノ口副官に連絡。大隊長へ。
終戦即ち敗戦である。残念無念。
十五日以来上級指揮機関からは何の連絡もなかったのである。
早速第八飛行師団桃園飛行団、台湾軍司令部、台湾防空司令部へ通信連絡を入れたが、全て杜絶して回線はつながらなかった。
大隊長以下呆然として、為す所もなく為す術も忘れ果てて、今までの空襲警戒体制も日常業務も放棄して、その挙句が隊舎にこもって食っちゃ寝、食っちゃ寝といった状態が丸一日は続いた。
 所在無く外に出てみたが、人影もなく死んだような気配に包まれた兵舎だけが、照りつける夏の日差しにヒッソリと建っているだけである。
本部衛兵所は詰める兵の姿はなくガランとしている。
その前を通り営外に出る。
一本の広い路が延々と遥かに延びている。沿道の民家もなく、広々とした水田が、新竹州独特の防風竹林に囲まれて青々と広がっているばかりである。
空は明るく無限に広がっている。
平静である。
空を仰いだ時、「あヽ、私は生きて故国に帰れるんだ。」という思いが不意に起こった。
今は国も民族も家も家族もない。
ただ我が命がここにあるという思いだけだった。
そして、神戸三宮の易者の言葉がよみがえった。
わしの嫁さんも内地のどこかでこの同じ青空の太陽を仰いでいるに違いない。
戦争は敗戦に終わったけれども、どんな思いでいるのだろう。
その顔は私には思い浮かばなかった。
きっとモンペ姿だろうな。
私の思いはここまでである。
厳しい現実がある。
これから私達は、私達だけで内地に復員するまでの自活の道を講じなければならなかった。
もうどこからも、補給を受けることができなかったからである。

第三章

 復員して見ると、二十年八月六日の夜、米軍は焼夷弾による大空襲を行い、今治の町は殆ど焼き払われて、ご多分に漏れず私の家は跡形もなく、きれいさっぱりなくなっている。
 私は、父と在間朝海(ざいま あさみ)さんと二人で共同している建具工場で働くことになった。
私には建具を作る経験なんかまるでないので、雑用をする日暮しである。
よく職場に精悍な顔をした大声で話す大柄の人が来ていた。
自然顔馴染になり、時々話も交わしていた。
或日、「喜平さんの息子さんですってね。」「父を知っているんですか?」ということで、立ち入った話もするようになった。
藤本さん。奥さんは筒井さんの娘さん。
息子さんは私の弟の幼稚園友達。
そして、戦災前の私の家の前にいた柴田さんと製材工場をしているとの事。
筒井さんの家は、戦災前私達が遊び場にした広場のすぐ側の商店であるが、店頭から裏口までそれこそ一町もあるかと思われる大屋敷であった。
段々親しくなるに連れて藤本さんは、これからの若い者が頑張って焼け野原の今治を復興させねばならんと、いつも私と顔を合わせるたんびに熱心に話してくれる。
しかし、私はその器でないことはよく知っているので、「ウン、ウン」うなづきながら聞いていた。
藤本さんはお構いなしに話をズンズン進める。
「それには今治の先ずこれはという人物を知っておくべきである。」と話は飛躍する。
 それも悪くないなあと思っていると、「その人物はわしが紹介してやる。今晩から順番に紹介しよう。」ということになり、先ず最初になる人物の大よその人となりを聞かされた。
「帰宅して服装を改めて今晩出直して来ます。」
「そのままでいいよ。そんなこと気にする親爺じゃないんだから・・・。」といわれたが、そうもならず改めて出直した。
私の住所はこの作業場から一里ほどの所にあった。
服装を改めるといったって、別に外出用があったわけではない。
普段は旧陸軍から民間に廻された兵服に今治港務所前の闇市で買った航空長靴をはいていた。
私は南方行きを命じられていたので少尉任官のため用意していた冬用将校服を留守宅に九州三池港から送り返していた。
八月六日の夜、空襲直前に私の父母は私のこうした服、私が持っていた書籍、その他私関係のものを牛車に乗せて疎開先に運んだ。
自分達や家族の者は後回しにしていた。
出征している息子への父母の思いが私に伝わる。
父母が運び出したものはこれだけで、その晩に家も財産も、長い年月かけた父母の汗の結晶はアメリカ軍機によって焼き払われてしまったのである。  
この軍服が私の一番の正装だった。
玄関に入った時、服装を改めたことは正解であると思う。
埃に塗れ汚れた作業衣のままズカズカと上がれるような雰囲気の家ではない。
紹介がすむと大きな火鉢と茶ダンスと小さな机に囲まれた主人がお茶を入れてくれる。
私の家はこんなお茶を飲むような家ではない。
さて御主人は殆ど白髪の短髪、いつもニコニコして藤本さんと四方山話をしている。
そして時々私に話しかける。
ところが暫くして私の座っている横のふすまが静かに開けられて、盛装の娘さんが目八分に捧げ持って私の所にお茶を運んで来た。
藤本さんを見やると横を向いている。
御主人は笑顔で私を見ている。
翌日、藤本さんがやって来て「私の見る所では、気立てはよくやさしく気の付く今時にはあんな娘はいないよ。」という。
藤本さんは父や弟から一かどの信用のおける人物であると聞かされたが、今治のしかるべき人物に紹介するという言葉が頭にあるので、何ぼ何でもちと話の筋が通らん。
第一娘さんはお茶を私に勧めるとそのままスッと引込んで二度とは現れなかった。私の印象は何もなく、盛装した娘が突然現れたのでビックリ。実は顔は一度も見ずじまいであった。
実際に私は「お見合い」なんどいう気持ちは全くなかった。
だから親にも行先は言ってない。
「・・・顔も見てないのに・・・」私は意見は何もないと伝えると、藤本さんは「じゃあ,もう一度ゆっくり会って見るか。」とくる。
どうも藤本さんの話を押し返す雰囲気にならん。
結局、藤本さんのペースでこの話は進んで行く。
「わしは家もないし、職業だって本来のものではない。家もわしもお先真暗で、嫁さん貰ったってどうにもならん。」
「うん、おやっさんは娘を引き取ってもらえるまで、一年でも何年でも預かる言ってる・・・」
「ほんなら直ぐでなくっても、いいというのですか。」
「そうだよ。」
藤本さんは、いとも簡単に答える。
そんな条件なら何も差し当たってどうこうせんならんことはないと、私は極楽トンボだ。
まだ復員して間がなく、世間の常識にはまだ馴染めずにいた。
こんな私のどこを見て言っているのだ。
再会して見ると、兄一人・姉妹五人兄弟で、兄はまだ復員せず、どこにどうしているのか全く不明であるという。
して見ると、彼女の家の後継ぎがどうなるかが問題である。
もし兄の身に間違いがあると、長女の彼女に責任がある。
その点を聞くと「・・・姉妹が多いんだから・・・」という、このことは彼女も彼女の両親も同意見である。
私は長男であるから、こうした問題にはこだわりがあるが、とにかく彼女との話は承知したが、内心は彼女の兄が無事復員してから具体的な話にすべきだと考えた。
やがて、厳しかった南方から彼女の兄が復員してきた。
私の父は親類から檜・松の原木を贈られて、ささやかながら小さな住居と作業場を建て本来の仕事に復帰し、私も父の仕事を手伝うようになった。
やがて、一年は過ぎた。藤本さんは                 
「もうそろそろ片を付けていいんじゃないか。」
「アレ・・順がつくまでは一年でも二年でも待つといっていたのに・・。」
「ウン、おやっさんが、もういいのではないかと言っている。」・・・
そうだな。後にまだ娘が四人もいるし。
それに決まってから一年になるのに、まだそのままでは父親の立場がある。
その頃はまだ家族制度は全くすたれたわけではないし、父親や娘の立場も考慮のうちに入れんならん。
そして私の方も父がドンドン仕事を進めていて、どうやら筋道も立ってきている。
私の生活は殆ど父親の手の内にある。家も仕事場もみんな親のものだ。
それに私の手元にはお金もない。ないないづくしである。結婚についても私は何もせん。
父親が準備をしているのを、他人事のように眺めている。
昭和二十二年四月六日、私達の結婚式が行われた。披露宴は純米のカレーライス一皿、それで出席者は御馳走だと喜んだ。私達二人の出発門出はこんな時代であた。
さて、私は神戸の易者が、「お前の一生をハチャメチャな破滅から救うだろう。」と、あのほの暗いローソクの光の中で私にキッパリと占断したことは、全く忘れて思い出しもしなかった。
彼女の父母兄妹は、スカンピンの私を大事に扱ってくれ、長年変わることはなかった。
私は私の実家よりも彼女の実家に精神的に生活を支えられたと今も思い返している。
 あの終戦のあとにどうしているかなあと大空を見上げた時、内地でどうしているかなと想像した彼女は、この時現実に私の前に現れたのであるが、私はこのことを忘れていた。
 神戸三宮の闇のほのかな灯がいつか胸に灯った。
昭和十九年から五七年、私の心の中にこの神戸の易者の言葉がいつのまにか腰を据えて、今でも大きな顔をしている。
平々凡々の私は今、四人の子供、十人の孫がいる。
ヤッパリ、神戸の易者の占断は、私を吉運に導いてくれたのだ。


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騎馬戦 2007/07/29

2007-07-29 23:55:34 | 戦前・戦中の日々
 田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
父の葬儀には、多くの皆様から励ましのメールやら、お香典をいただきありがとうございました。

(49日が過ぎるまで)
コーラル丸の川端船長、熱心な浄土真宗の信者らしく、49日が過ぎるまで、コーラル丸での釣駄目。
農業が良くて、漁業はは49日まで釣駄目というのは、おかしい、本職の漁師が身内が亡くなって、49日も仕事をしないというのは、生き残った者の生活がなりたたないと疑問に。
ネットで見てみると、漁師町では、葬儀と同じ日に、49日の法要も済ませて、葬儀の数日後には釣にいくとのこと。
これが本当と安心。
もっとも、葬儀で気合いがはいって疲れが残り、今のところ、朝早く起きるのは嫌で、釣りはもうしばらくお休み。

(香典返し)
葬儀が終わってからも、何人かの友人から、お香典をいただき、どうしたものかと思案。
香典返しは、北九州の若者の役に立つことに使おうと、封切りなった「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」の映画を見に3人の若者を誘う。
S氏32歳、H氏25歳、SA氏17歳。
皆さん、北九州市の若い方の就職支援センターに顔を見せてくれる若者。
映画を見た後、小倉室町の錦龍で評判のチャンポンを旨い、旨いと食べて解散(冒頭の写真)。
お香典をくださった皆様ありがとうございました。
お返しはこのように、有意義に使いました。

(いい顔)
先週亡くなった父の顔、口元を引き締め、満足そうないい顔。
父が6年前、孫の一人が、中学の騎馬戦に出たのをきいて、62年前の22歳の時、陸軍少尉で台湾で終戦となり、引き上げるまでの体験記を書いていたのを読みなおしました。
憲兵隊ともめたり、仲直りして、運動会で騎馬戦で大勝利したりといった内容。
忘れがたい思い出だったようで、その時の勝利を思い出しながら去っていったのだろうと推測した次第。

(以下がその文章。400字原稿用紙20枚と長く読むのには忍耐が必要。終戦直後の日本人の様子がよく分かる。この世代が戦後の日本の復興の担い手になったのもうなづける)


 J君、運動会で大活躍、騎馬戦では逆転の大勝利を収めたんだって!
じいちゃんも久し振りで若き日のあの日を思い出した。
 
昭和18年(1943)4月9日、山陽線尾道駅上りホームに私は立っていた。
上り列車の到着を待つ一刻。下りホームに渡る陸橋の降り口僅かのところに、一本の若桜が今は盛りと満開の花を誇らしげに爛漫と咲き誇っている。そよと吹く微風もなく四月の陽光は、さんさんときらめいている。 今治港を数百人の歓呼の声に送られた現役入隊のたかぶる心を抱いて若人四人がこの桜花に見入った。 本居宣長の
      しきしまの
         やまとごころを  ひととわば
           あさひに にほう  やまざくら
 日本男児と生まれては、常に理想としたこの歌の心は、今このホームに立つ若人四人の心であった。 この駅の構内に独立する満開の桜は、吉野桜ではあったが、・・・。 やがて、汽笛一斉私達は、中部軍第七三部隊加古川高射砲第三連隊の営門をくぐった。 二十一歳の春であった。
 
 昭和二十年八月十五日 、敗戦。
 私の身分は
 「陸軍兵科見習仕官、竹田光雄、昭和二十年一月十日、陸軍少尉に任官。
  予備役編入 即日応召」
  所属部隊、野戦独立高射砲第八十二大隊
       大隊本部 一、七糎船舶高射砲編成三ケ中隊 十八門七百名
 私は本部勤務。 任務は、
  大隊兵器掛将校。大隊築城掛将校。兼務大隊本部陣営具掛。炊事掛。
 戦闘中は、監視掛将校。大隊本部警備掛将校。

 敗戦を知ったのは八月十七日。十八日、十九日は大隊長以下、処置なく、ただもう茫然としていた。 かくてはならじと大隊長以下情報収集に努力したが,徒労に終わった。 上級部隊である第八飛行師団桃園飛行団、台北における台湾軍司部、台湾防空司令部への連絡は全く杜絶。
 
 大隊が動き出したのは二十日。
 大隊長 松原大尉。   指揮班長 網本中尉
 経理班長 片山中尉 
 軍医   井畔(いぐろ)少尉、 植村見習仕官。
 副官   井ノ口少尉、 竹田少尉。
 (木ノ内少尉、中村中尉は現地除隊)
 取敢えず大隊は如何にすべきか。大隊本部の方針は如何にすべきか議せられた。 第三中隊から室少尉が本部に配属せられた。
 大隊長以下敗戦処置による軍隊がどうなるか誰もしらなかった。
 大隊長の第一声は、東京で大隊の兵器をすべて天皇陛下に奉還する。
 大隊長の考えは、敗戦国軍隊のものでないことは明らかである。
 結局、山口高商卒、商社マンとして世界を駆け回っていた片山中尉の意見が取り入れられた。 片山中尉は延々と敗戦とは何か、敗戦によって国はどうなるか、軍隊はどうなるかを世界各国の実例を挙げて雄弁をふるった。大隊長以下納得。以後大隊の主導権は片山中尉を中心に動いた。
(1) 中国大陸からは福建軍陳儀が基隆から上陸(鍋、傘、天秤棒をかつい
だすごい部隊であった。)
 (2) 武装解除に備えて、高射砲十八門は一ヶ所に終結。はじめは私がこの任務に当たったが、桃園を出るとき、第一中隊飯塚少尉と交代。
(3)台中州ニ水に移動。
(4)台中州南投街に移動・
この時、将校は帯剣。兵は銃剣を携行。明治精糖株式会社より三十甲歩(日本の約三十町歩)さとうきび畠借り入れに成功。      
(5)このさとうきび畠で農作業。食糧の確保に努める。(自活隊となる。)
(6)その他現金収入のため、自動車 六台・・・輸送業、 床屋開業・・
皇室御用の理容師がいた。
 (7) 大隊の資金  三十万円 (大隊の軍費転用)

わたしは大隊本部の農作業、床屋営業を任せられた。 水牛親牛八頭、子牛三頭、農機具、小麦、野菜の種苗など片山中尉の世話を随分受けた。
 この時、桃園地区に松井大尉指揮の高射機関砲隊が松原隊に編入され、、新しく南投地区治安維持のため補助憲兵岡垣分隊が配属された。長の岡垣少尉以下補助憲兵は北海道歩兵旭川連隊の出身である。

第一章

 明治製糖南投工場の蔗糖倉庫が私達の宿舎に当てられた。 三百坪。壁も屋根もすべて孟宗竹によって作られていた。 私達が到着した時には、長年の蔗糖の汁が床に溜まり、その上にスクモ(籾殻)がまかれて厚さは二十糎に達し、蜜蜂がブンブン飛んでいた。 「ヒヤッ」 これが、私達の第一声である。 驚いていてはことにならん・ 早速会社に交渉して、わら束をもらい出して尚その上にばら撒き、糖蜜が全く見えなくなるまで敷き詰めた。 何たって三百坪は広いもんな。 歩いたら足がスーと沈んで、みんな踊っているようだった。 
 天幕で仕切って、将校室、下士官室、兵室を区切り、蚊帳を吊ってヤレヤレで一日は終わった。 将校室は室修少尉、竹田少尉。下士官室は最古参の営外居住曹長後藤外軍曹、伍長連中。兵は本部勤務の通信、衛生、自動車、経理、兵器、炊事、陣営具の各掛兵。南投街に居住したのは大隊長以下約八十名。
 大隊長以下将校は、私達とは別に明治製糖の役員宿舎に入った。 私は一度もこの宿舎には出かけなかった。

第二章

 生活は兵営に準じた。
 午後七時、日夕点呼のため週番仕官松原少尉があらわれた。 松原少尉は私の一期後である。 いつもなら週番仕官があらわれるまでには、週番下士官・週番上等兵の指揮のもとに各班長がそれぞれ各班をまとめて週番士官の点呼を受けるばかりで終わったのだが、今夕は違った。
 私も初めは気が付かなかった。 いつまでたっても点呼が終わらないのである。 三百坪の宿舎いっぱいに兵達の笑い声がドッと揚がるのである。 「アレッ」と気を付けて見ると、隣の下士官室から大声があがっていた。後藤曹長である。 酒に酔っている。 後藤曹長の酔声は、週番仕官の若い松原少尉に向かっている。 後藤曹長は軍隊生活が長い。 色々な経験も経ている。 いわゆる千軍万場の強者である。 東京出身の幹候出の若い少尉になりたてのホヤホヤで、まだ湯気が出ている 坊ちゃん少尉は、この軍隊で鍛えられた古参曹長に向かうには一寸貫目が不足していた。 「メンコの数でこい。」 これが古参
兵の切り札である。 一日早く入隊した同階級のものでも、この古参兵にはかなわない上下の格はどうしようもないのである。 後藤曹長は若い少尉をいじめる文句にはことかかない。 日頃、階級によって抑えられた兵の喜ぶこと限りなし。 後藤曹長の一声一声にまた兵は同調して騒ぐ。 それに力を得て曹長の声は一オクターブまたあがる。 はてしがなかった。 松原少尉は処置なしで立ちすくんでいるようである。 
 仕切り幕の中で室少尉は苦笑いしている。 室少尉は東大経済出身、神戸製鋼に勤めて、この時、二十八歳である。 室少尉は第三中隊付だから、本部のこの騒動に出る幕はない。 苦笑いする室少尉を横目で見ながら、「シャアナイワイ」と、私は室の外に出た。 松原少尉が照れたようなショゲた顔を私に向けた。 下士官・兵の姿は一人も見えず、天幕の仕切りの中である。 松原少尉が一人でウロウロしている。 週番下士官・週番上等兵の姿はなかった。 兵達には点呼を受ける気持ちはサラサラない。
 宿舎の中は曹長の酔声が一際高く響き渡り、同時に下士官と兵のドッとはやす声ばかりであった。
 私は舎内をだまって一番奥まで歩いていった。 そして怒鳴った。 「今笑ったのはどいつだ。 答えろ。」 兵がドッと笑った。 これが私への答である。
「わしには声を聞いただけで、誰だかよくわかるぞ。」 とたんに兵の笑い声が消えた。 
 今本部の将校で下士官兵と寝食を共にしているのは私だけである。 他の将校は明るい電灯の下で、畳の上にヌクヌクと休んでいるのだ。 この松原少尉もその中の一人だ。 下士官兵の声まで一人一人見分けられるのは、私だけである。 「誰だかわかるぞ。」と言った私の言葉の意味は下士官兵たちが一番よく知っている。 静まり返った兵たちをよそに、後藤曹長の叫び声が空しく倉庫の天井にいつまでも響いていた。 「曹長はほっとけ。早く。」と松岡少尉をうながした。 点呼を終えて少尉は一人宿舎を離れて闇の中に消えた。
 翌朝、私は後藤曹長を呼んだ。  曹長は私の前に膝を揃えて正座した。 昨夜の勢いはどこえやら、小さくかしこまっていた。 曹長は昨夜自分のとった行動が何を意味するかよく知っているのである。 酒は冷め果ててゲッソリとしている。 「曹長、昨夜は面白そうだったなあ。 みんな喜んでワアワア言うとったが、わしはつい聞きそびれた。 もう一度聞かしてくれ。」 「ハア。」 「どうなんだ。」 「ハア。 ・・・すみません。」 曹長は手をついた。 私はだまって、曹長の姿を眺めていた。

第三章

 私は、毎晩、兵を十名づつ夜間外出を許可していた。 門限は十時であった。
後藤曹長は営外居住であったので、この規定は適用されなかった。 ところが、この曹長が補助憲兵の上等兵にやられたのである。 憲兵は曹長が十時以後に酒に酔って町をウロツイテいたのが引っ掛かったのである。 後藤曹長は直ちに営外居住証を示したが、役に立たなかった。 最近、この営外居住証は更新されていたのである。 曹長はこれを知らずに無効の営外居住証を示したのである。 曹長は補助憲兵上等兵にコテンコテンに油を絞られて帰って来たのである。 普通では考えられないことである。
 この原因は、敗戦によって、甲種幹部候補生で曹長の階級であったものが、そのまま曹長を命ぜられ、曹長事務職を取ったのである。 この者の姓名を私は忘れてしまったが、この曹長が満足に曹長事務職が取れなかった。 彼は 後藤曹長に新しい「営外居住証」の交付をしなかったのである。
 上等兵に絞られた後藤曹長は更に酒をあおって帰って来た。 新しい事務掛曹長は平あやまりに謝ったが、それでも曹長の胸はおさまらず、昨夜の騒動となった。 松原少尉もこれ以上騒ぎを起こすのは好まず、後藤曹長の件は不問に付された。

第四章

 事件の首尾は明らかになった。 翌晩、私は外出を許可した十名に一応の注意を与えた。
(1)文句があるなら素面で来い。 いくらでも聞いてやる。
(2)今後、酒の勢いでやった言動には容赦せん。
(3)今後こんな騒動を起こした奴は、「乗船名簿」から削除する。  
(丁度この頃、内地へいつ帰れるかが話題の中心であった。 船に乗
 らんと内地へは帰れんから、私は乗船名簿から削除すると脅した。
 なーに 私にそんな権限なんかありはせん。)
(4)補助憲兵には又任務があるんだから、その任務についてはやむを得ん。   
しかし、もう敗戦で、昔とは事情が違う。 今度の曹長が上等兵に絞られるのは納得がいかん。 憲兵だって、星の数がものを言うんだ。 今度わしが巡察将校になったら、憲兵宿舎をでんぐり返してやる。 憲兵と問題があったら、すぐわしの所へ言うて来い。 わしが星の数にものを言わしてやる。
(5) 気を付けて行け。 

第五章

 私は大声でいつも兵に、憲兵には今に目にもの見せてやるからなとしゃべっていた。 私には目算があった。 ある日、ひょっこり、この宿舎には姿を見せたことのない網本大尉が姿を見せた。 中尉から大尉に進級していた。 「竹田少尉、憲兵隊とあんまり面倒を起こさんでくれ。 大隊長殿も心配しておられる。」 私の目算はこれであった。 私の高言は大隊長まで届いていることが確認されたのである。 憲兵隊にも私のことが伝わっていた。 岡垣隊長はじめ隊員達はどう対処するか相談していると言う。 網本大尉は面倒は起こしてくれるなと念を押す。 そこで私は曹長の名は伏せて、兵の夜間外出について憲兵隊がうるさく取り締まるので面白くないんだと、簡単に事情を説明した。
「わかった。」   網本大尉は、もう軍隊は昔と違うということに理解を示した。 憲兵隊には大隊長から話が通され、憲兵隊の取り締まりは大幅に緩和され、外出した兵はのんびりと休養して外出を楽しむようになった。 

第六章

 大隊長は南投街に移駐してから、南投街の日本人、台湾人住民、明治製糖の職員・従業員の世話になっているので、親睦のため運動会を開きたいと企画を出した。 無論、兵達の士気を鼓舞する意味もあった。
 当日、原住民や日本人官民多数がつめかけた。 場所は日本人小学校である。 好天であった。 おそらく敗戦後このような催しは皆無であったのだろう。 観客の顔は楽しそうな笑顔であった。 松原大隊長の意図は成功である。
 私にはこの運動会には出場する予定はなかった。 ところが、番組の進行番組の中に大隊各隊対抗の騎馬戦が組まれていた。大隊本部も参加することになっていた。 その指揮官に突然指名されたのである。 網本大尉からである。 網本大尉は神戸防空隊で幹部候補生教育を受けた時の教官である。 昭和十八年九月から昭和十九年一月までであった。 私はその後陸軍機甲整備学校(東京世田ヶ谷)に入校。 昭和十九年八月十五日卒業。 原隊の神戸に復帰した時には網本中尉は出征していた。 私も出征。 仏印サイゴン南方総軍司令部転属、ビルマ方面軍配属の途中、高雄で乗船沈没のため、基隆の防空隊に転属になった。 この防空隊の作戦室主任が、教官網本中尉であった。 私は取り敢えず作戦室勤務になった。
 網本大尉からの指名を受けた時、私は一言のもとに快諾した。 久し振りの小部隊指揮も楽しみであったが、それにも増して、「騎馬戦」そのものに興味もあり、また自信があった。 
 大隊本部の兵員だけかと思って兵の集合場所に行ってみると、大隊本部の兵だけでは少ないので、駐留憲兵隊と合同とのことである。 憲兵隊かと私は心の中でつぶやいた。 後藤曹長の件で憲兵隊にはわだかまりがあるし、また憲兵隊が私の言動に反感を持っていると言う情報は、とっくに私のもとにも届いている
 連中が私をどんな顔をして迎えるだろう。 大隊本部・憲兵隊に、集合・整列を命じる。 流石に北海道の歩兵から選抜された補助憲兵隊は、体格が立派である。 身幹順に整列させると先頭はすべて憲兵、大隊本部の通信、衛生、自動車、経理の連中は後尾である。 高射砲兵といっても事務的に廻された兵の体格は劣弱である。  
 さて、立派でたくましい面魂の憲兵は流石に動きがハキハキと活発で見ていても気持ちがよかった。 「竹田少尉である。」と名乗った。 憲兵の目が一斉に私に集まった。 彼らの目に親しみはない。 「アレッ。」といった不思議そうに私に向けられた視線が、次には「コイツカ。」といった敵意が感じられる。 私は目をそらさず、憲兵一人一人の目を見返すようにズラリと整列した憲兵の列に視線を流した。 私は憲兵と対決したような気分で緊張した。
 思ったとおり小部隊の指揮は楽しかった。 第一先頭の憲兵の動きが良かった。 速歩行進は流石に歩兵である。 膝は伸びるし、裏足で行進する兵など一人もいなかった。 それに反して大隊本部の兵は格段の見劣りがする。「シャアナイワイ。」と私は思う。
 入場を終わる。 対戦相手は、松井高射機関砲隊である。 指揮官は島少尉。 「用意。」で、馬を組む。 私は先頭の憲兵で最も体格の良い馬に乗る。 ガッチリとして乗り心地は全く上乗。 六四kgの私を乗せてもビクともしない。「コレハイケルワイ。」と私は上機嫌。 しかし、私を乗せる憲兵は何と思ったろうか。 私と憲兵の皮肉な廻り合わせを考えるとおかしくもあった。
 私の隊と島隊の馬は各十五騎。 戦闘開始に先立って、私は馬を進めて私の隊の前に立った。 「私の馬に習って馬を組み直せ。」 私は前馬と後馬が手を組んで作ったあぶみの手の結びを離れさせた。 乗り手の両足が両側にブランとぶら下がる。 そして後馬の自由になった手で乗り手の両足をシッカリと抱きかかえさせた。 これで前馬の両手は自由になった。 列中の馬は私の示したとおりにした。 「馬は噛み付きも蹴りもするんだ。 前馬はわかったか。 相手の馬は引き倒せ。」
 この騎馬戦は、乗り手の落馬を以って勝敗とするルールである。 単純に乗り手を落馬さすか、馬を崩して乗り手を落馬させるかが勝負である。 馬の組み方についてはルールはない。 「わかったか。」 私はもう一度叫んだ。 「わかりました。」 返事は元気よく返って来た。 兵達は私の新しい馬の組み方を呑み込んだようである。 元の位置にかえり島隊を見渡す。 島隊の陸容は通常通りである。 「勝った。」 私は勝利を確信して心の中で舌を出した。 島隊はノンビリと戦闘開始の合図をまっている。 我が隊の馬は、新しい馬の組み方で防禦力を完璧にして、攻撃力が二倍にも三倍にも跳ね上がっている。 それに攻撃精神が充実。 憲兵隊の体力が以上の作戦遂行に威力を倍加させている。 私はもう敵を腹中に入れた気でいる。
 掛かれの合図が出される。 「行くぞ。 ソレッ。」
私の馬を先頭に時計回りに進む。 列中の馬がその後に続いて長くなり螺旋状に廻る。 島隊も島少尉を先頭に右回りに進む。 私の馬が島隊の後尾に迫る。 私は、「右に向け。」と号令。 私を先頭に我が騎馬隊は縦一列から横一列になった。 島隊は縦一列のまま右旋回している。 「かかれ。」 私の号令一下、我が隊は島隊の横腹に一斉に襲いかかった。 先制の功である。 敵騎を一騎ニ騎と追い落とす。 混戦の中、全体の戦はどうなっているかわからない。ふと気が付くと、私の馬の右真横に島少尉の顔が見える。 私の馬は立ち直る暇がなかった。 島少尉の両手が私の肩にかかる。 私の体は45度右にギュッーと傾いた。 普通ならここで落馬である。 私の両足を抱えた憲兵の手に力が入る。 前馬がギューと力を入れてふんばる力が私の体に伝わる。私は90度傾いている。 島少尉の顔がすぐ上にある。 だが私は落ちなかった。 憲兵の必死の力が私を支えている。 私はかまわず島少尉の腕を掴んで引きずりおろした。 島少尉がポカンと間抜けた顔をして、私の体にぶら下がりながらユックリと地上に落ちていった。
 私は再び馬上に体を立て直した。 見渡すと島隊の騎馬は全滅している。 残る馬は我が隊の騎馬である。 落馬した崩れた馬の島隊の兵がポカンと運動場に突っ立って、勝ち誇った我が隊の騎馬を眺めている。 「よし、元の位置にかえれ。」 整列して見ると、我が隊は落馬一騎。 十四対0の完勝である。 しぶい顔をしていた憲兵達が大口を開けて笑っている。 「勝ちどきだ。 ソレ、エイエイオー、 <、<、 」 入場して来た時の憲兵とは雲泥の違いである。 憲兵の生き生きとした笑顔が今も目に付く。 退場して、「解散。」を命じる 兵は喜び勇んで散っていた。 私は入場から退場・解散までニコリともせず笑顔は見せなかった。 網本大尉が「竹田少尉にこんな一面があるとは・・・。」と不思議そうな顔をした。 して見ると、私は騎馬戦では普段見せない顔で戦っていたと見える。

第七章

 昭和二十一年二月二十七日、豊予海峡より瀬戸内海に入る。 佐田岬先端の元要塞跡の美しさ、海の深いブルーの美しさが、ああ故国に帰ったんだとの感を深くさせる。呉軍港では、天城・日向などの沈没した姿を淋しく眺める。 日向は昭和九年、小学六年の修学旅行で乗艦見学している。 大竹元海兵団跡に収容され、英軍の検査を受ける。 頭からDDTの粉をバケツであびせられる。
 翌二月二十八日、大竹駅発復員列車で東に向かう。 広島の原爆の凄さに度肝を抜かれ、昼過ぎ尾道駅に降りる。 この列車からの下車者は私を含めて三人であった。 発車までの間、同部隊の連中と何となく話をしていた。 突然、ニ車輌程前方から、「竹田少尉ドノ、竹田少尉ドノ。」と連呼する声が聞こえる。 誰だろう。前の車輌には我が部隊は乗っていない筈だがと、そちらの方を向く。 幾つかの顔が窓から出て手を振っている。 憲兵達である。 私の胸に何とも言えぬ感動が込み上げる。 思わず彼等の車輌まで駆け寄った。
 「竹田少尉殿、元気で。」と手が伸びて来る。 思わず誰彼無しに伸びて来る手を握り締める。 「お前達も元気でな。」私は大声で叫んだ。 列車が動き出した。 窓で振る手がヒラヒラとゆれて見る見るうちに列車は、視界から消えた。 後には薄く汽車の煙がたゆたっていた。 薄日のこぼれる風のない静かな昼下がりの長いホームが続いている。  
 気が付くと陸橋のたもとである。 山側に桜の木が一本立っている。 何の傷も無く平々凡々と独立している。 私が入営のときは満開で送ってくれたが、今は裸木で黙って迎えてくれる。
 私は尾道駅から東に向かったが、西からこの尾道駅にかすり傷一つ負わずニ年十一ヶ月振りに帰って来た。 私の戦争は、尾道駅から始まって尾道駅で完結した。 桜はその象徴であった。
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進軍ラッパ (2007/7/19)

2007-07-20 00:03:26 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
母の危篤状態を知った翌日から、昏睡状態にあった私の父が、今日の夕方千葉の姉に見守られてなくなりました。
昨日の27人の宴会のメンバーの一人は、お前が幹事で準備していたから、それが終わったのを見届けて、去っていったのだと。
目頭が熱くなりました。
父は、文章を書くのが好きで、誰が読むわけでもないのに、年取ってからもよく、書き散らかしていました。
下の「進軍ラッパ」は故郷の四国今治の昭和のはじめの思い出で3年前病床で書いたもの。
今治は花崗岩質で、川底は花崗岩が砕けた真っ白な石英、長石、水のきれいな川が総社川で、その上流に鈍川温泉というのがあります。
そこに小学6年の時、遠足に行ったとか。
少し歩くと、田舎、当時は、陰湿ないじめ、などなかったと分かります。


進軍ラッパ

私が小学6年生だった時、担任の村瀬晃夫(てるお)先生が一つの提案を提出した。その頃は3月10日は陸軍記念日、5月27日は海軍記念日で、この日は各小学校は遠足をする慣わしだった。
気候が暖かかったので、この先生の提案は5月27日だったのだろう。
 先生の案は、小学生最後の遠足なので、今治から約4里ある鈍川温泉まで歩いて往復しようというのである。
組に藤井貞夫といる太めで足の弱い生徒がいた。
ほかの連中は先生の案に大賛成で、行こう行こうと大騒ぎであったが、藤井一人はぼんやりしていた。
往復8里は彼にとって夢のような話だった。
これに気付いた、騒ぎ立っていた同級生も一応静まり、さて、彼をどうするかに案の主題は移った。
①休ませる
②皆で助け合って連れて行く
 長時間の討議の末、彼を連れて行くことに決定した。
イザという時は交代に肩を入れて連れて帰ることになった。
藤井は始め渋っていたが同級生の熱意に喜んで参加することになった。
 さて、当日、私達は鈍川温泉に到着。
子供らしく川の中に入り、散々面白く遊んで、帰途に着いた。
問題はその時起こった。
当時、蒼社川の土手は郷橋から上は人家も無く何百本もの松林になっていた。
この松林の直前で、藤井が歩けなくなったのである。
皆は決心どおり藤井の肩に両方から肩を入れて担いだ。
 その時である。先頭にいた富田紫郎(しろう)が寥々と進軍ラッパを吹き始めた。疲れ気味の全員の足が軽やかに動き出し、藤井の両脇に肩を入れた生徒にも力が入った。
富田の進軍ラッパに先生も驚いていたが、何も言わなかった。
それから約一里、この進軍ラッパは四方に響き渡り、藤井も無事に帰り着いた。
 富田紫郎は、後に今治第一尋常高等小学校の校長になった。
この時遠足に参加した63名の同級生は後々この進軍ラッパに励まされたものだ。

私の近所に藤井商店という八百屋がある。
その主人は貞夫といい年も一緒なので、この時の藤井かと思ったが違っていた。

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2006/2/19

2006-02-19 20:06:07 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。

釣はコーラル丸の川端船長が法事とかでおあずけ、しばらくご無沙汰の竹田農園に妻と今日行ってきました。
玉ねぎ、グリーンピースの手入れに、果樹園づくりが今日のテーマ。

(果樹園誕生)
 結婚以来29年間空家の小高い丘に囲まれた妻の実家には、いつも使っている70坪の畑の他に、2反(600坪)5枚の田んぼがあり、これまで近所の農家の方に、一反あたり一俵(60キロ)の賃貸料で米を作ってもらってきました。
しかし減反政策と、農家の方の高齢化で、だれも作り手がなくなりました。米を作らなくても、雑草を生い茂らせることはダメで私が草刈を年、3回はしなくてはなりません。
そこでひらめいたアイデアが田んぼに、果物のなる木を植えてしまえ、草刈をする甲斐がある、というもの。
当初、栗畑にしようかと思いましたが、イノシシやら道をあるくハイカーに食われるだけ、もっと悪いのは、木の背丈が高くなり、回りの田んぼの日当たりを悪くして、苦情殺到かも。
では柑橘類のような丈の低いものを植えようとなり、近所のナフコ(園芸・大工道具スーパー)でネーブル、ボンカン、ブンタン、梨、イチヂク、ビワ、梅を11本買っての農園行きとなりました。
 畑から150メートル程のところに5枚の畑があり、一枚あたり、約120坪、初めて田んぼに立ってみると、意外と広々。
一枚当たり、2本の苗木はいかにも殺風景で、笑ってしまいました。植えようと穴を掘ると、水がしみだし、これはいかんと直径1.5メートルの円周に溝を鍬で掘り、土を盛り上げて、水はけを気持ちだけ良くして、妻と植付け作業、1.5時間、畑と違い、田んぼの土は粘土質で水を含み、重たいこと。最後の11本目を植えるころには、クタクタ。
宝くじよりは配当の確立は高かろう程度で、果樹園作りは完了。
3年後にはボチボチ収穫かも。気の長い話です。

(ネギ)
 家の近所の家庭菜園、ネギボウズが出ていたというので、青々としたネギ、20株ほど、急ぎ収穫。これをご近所に配り、特に、クロ釣で時々おすそ分けしてくれる、F氏にお持ちして、我家でも夕食の鍋に入れてたらふく食べました。
厚みと甘味と歯ざわり上々で絶品でした。風邪予防にも効果大のはず。

(江藤投手)
 農園の上の小さい家に暮らす、元南海ホークスのエースで第一回、オールスターの先発投手の江藤正氏84歳がジャガイモの植付けをしているとヒョッコリ姿を現す。
さすがに最近は腰が痛いとか。
姿勢は相変わらず背筋がピシャリで堂々たるもの。
医者に聞くと、若い頃、ピッチングで体を酷使したツケが今来たのかもとか。
ツケは50歳くらいでくるのが普通で、江藤正氏の超人振りを今日も垣間見た次第。

(危篤)
 二週間前、四国今治の母のお世話になっている特別養護老人ホームから明け方電話で、母が高熱で今から入院させるとのTEL。
腎盂腎炎とかで、抗生物質の投与を止めると熱が出、食事もとれなくなっているので、危篤との医者の言葉で、一族郎党、あわてて駆けつけました。
しかしこの5日ほど、熱も下がり、食事がまずいと文句をいいながら、食べ始めました。
母が40歳のくらいの時、私に「知り合いのおじいさんが、臨終ですと医者に言われ、親族が末期の水を飲ませると、ゴクゴクと飲み、その後、何ヶ月も生きた」と笑いながら話したことがありしましたが、自分でこの笑い話を最後に演じているようです。
81歳で余命はあまり無いでしょうが、大変逞しく、先日別れ際に見せた私への眼差しも、この馬鹿息子を残してあの世に行っても大丈夫カイナといった、強い母親の目で、おみそれしましたといった所です。
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