兼田橋の西詰に設置された『千人塚「三界萬霊塔」‐津山藩政時代の史跡‐』の案内板。矢印付きで「ここより南150m 兼田千人塚護持会」と記されており余所者にもわかり易い。


加茂川の西岸(兼田河原)は河辺河原と同様に津山藩の御仕置場として使用されていた。川沿いを進みJR姫新線の南側に辿り着くと堤防の上に千人塚があった。



入口横の千人塚起因(碑文)に目を通す。河原で無様な晒しものとなった数多の重罪人を供養するため寛政二年(1790)に三界萬霊塔が建立されたという。水害対策としての河川改修工事などを経て千人塚の位置は多少移動したようだ。当時の制度に様々な問題点があったのは事実だが、やはり専門職(所謂仕置人)は必要だったと私は考える。負の歴史ばかりを強調するのではなく城下の治安維持に大いに貢献した人たちを正当に評価すべき時ではないだろうか。兼田千人塚護持会の活動には心から敬意を表したい。


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加茂川の西岸(兼田河原)は河辺河原と同様に津山藩の御仕置場として使用されていた。川沿いを進みJR姫新線の南側に辿り着くと堤防の上に千人塚があった。



入口横の千人塚起因(碑文)に目を通す。河原で無様な晒しものとなった数多の重罪人を供養するため寛政二年(1790)に三界萬霊塔が建立されたという。水害対策としての河川改修工事などを経て千人塚の位置は多少移動したようだ。当時の制度に様々な問題点があったのは事実だが、やはり専門職(所謂仕置人)は必要だったと私は考える。負の歴史ばかりを強調するのではなく城下の治安維持に大いに貢献した人たちを正当に評価すべき時ではないだろうか。兼田千人塚護持会の活動には心から敬意を表したい。


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