東本町商店街には黒漆喰壁の建物がかなり残っている。廣井三郎商店の裏(笠岡駅から少し東に行った辺り)はかつて荷揚げ場であった。その船着き場が埋め立てられて山陽鉄道の路線が造られ現在に至っている。
酒屋の前を通過し商店街を抜け古道を進む。薬師堂の前の道は旧鴨方往来と呼ばれるが、私には浜街道という名称の方がしっくり来る。「古地図と巡る笠岡今はむかし物語1」には旧鴨方往来について次のように説明している。
備前岡山城下を起点に、備中を横断し備後福山の大門に至る道。かつては海岸線であったため「浜街道」とも呼ばれていました。
笠岡の街は福山藩の時代から行われた干拓やその後の埋め立て等によって相当に海岸線が変わっているのである。大平の世に所領を増やすために盛んに新田開発が行われた歴史を我々はもっと知るべきであろう。耕作地は住宅街へと変貌を遂げた。人間は便利な平地での生活を望むのが当たり前だからだ。私は伏越(ふしごえ)の踏切の手前まで来ていた。
酒屋の前を通過し商店街を抜け古道を進む。薬師堂の前の道は旧鴨方往来と呼ばれるが、私には浜街道という名称の方がしっくり来る。「古地図と巡る笠岡今はむかし物語1」には旧鴨方往来について次のように説明している。
備前岡山城下を起点に、備中を横断し備後福山の大門に至る道。かつては海岸線であったため「浜街道」とも呼ばれていました。
笠岡の街は福山藩の時代から行われた干拓やその後の埋め立て等によって相当に海岸線が変わっているのである。大平の世に所領を増やすために盛んに新田開発が行われた歴史を我々はもっと知るべきであろう。耕作地は住宅街へと変貌を遂げた。人間は便利な平地での生活を望むのが当たり前だからだ。私は伏越(ふしごえ)の踏切の手前まで来ていた。