自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

死後世界は幻覚?

2013年03月06日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

さまざまな解釈法    平成25年3月6日

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これまで死後の世界の体験者の話を基にして、展開しているブログの

内容だが、科学的解釈 をしてみたいという要望があることも

否定できない。


その方達の方法論は、

* 薬学的解釈

* 生理学的解釈

* 神経学的解釈

* 心理学的解釈

などさまざまだ。


たとえば、薬学的解釈でいえば、危篤状態に患者へ投与された薬の影響で、

幻覚症状を生み出したとする説である。


幻覚を伴う薬として、LSDやマリファナなどの薬物の不法使用の取り締まりが

強化されている昨今、薬と幻覚 という考え方は抵抗があまりないだろう。


ムーア博士もそれに関しては、医療薬として認められている

ケタミン(シクロへキサミン)を麻酔薬として投与すると、肉体から

遊離した状況をつくりだすことは認めている。


さらに この麻酔薬の投与から、死後の世界に行ったと話す体験者まで

いることを報告している。

ただ、ここで大きく違う観点が2つあるという。

 

麻酔薬や薬の投与なく、死後の世界を垣間見たという患者の話と、

良く似ているがしかし、共通する要素(2月24日 ブログ参照)と

明らかに異なる点である。


それは、光る存在、生命の光の存在の感知と、それを観た時の

感情の違いである。

光り を 後者(麻酔薬がなく、死後の世界を垣間見たとする患者)

が観た際、安らぎと幸福感を感じたという反面、前者(麻酔薬を投与された

人たち)は至福感を感じる代わりに、観念的な言葉であえて その光を

説明・描写しようとするのにとどまる。

 

第二に、後者は、自分の物理的肉体を客観的に観察する体験をもつが、

前者は、それがない


第三の点は、後者は それぞれの体験に共通する要素が必ず含まれるが、

前者はそれぞれ、別々で共通性がないこと、

さらに、後者の共通要素にも当てはまらない個々の体験であるという。

薬剤の投与による幻覚 を否定する もっとも強力な事実は、多くの体験者が、

治療を全く受けていない時点で起こったことを強調していることだ。 


もちろん、治療薬の投薬が全くなかった人ばかりではないが、その薬は、

アスピリン、抗生物質、副腎皮質ホルモン、あるいは局部的麻酔や、

ガスによる全身的麻酔などだった。 


つまり、中枢神経には、関与する薬ではないということであり、幻覚を起こす

心霊効果にも影響が及ぶものではなかったということだ。

一切薬を投与されていない体験者も、何らかの薬を投与された体験者も、

死後体験内容には、相違が認められていないことも注目に値するだろう。

 

ムーア博士は、こうした、幻覚説に関して、以下のように、意見している。

”現代の医学界には、精神に対して、影響を与える薬物は服用中に、

 心霊的現象を生むという仮説がある。 

 これは、現代社会において、広く一般に受け入れられているようだ。

 

したがって、こうした、心霊的現象は、’非現実的なこと’’幻覚’’妄想’だと

  みなされている。”

 

生理学的解釈というのは、

”臨床的に、死の状態にある期間、および、他の激しい肉体的緊張が

生じている間、 脳への酸素供給がなされないため、こうした

(心霊)現象は、死に瀕している脳の 最期の補足的なあえぎの一種”

という解釈である。


この論の根拠の弱さは、ムーア博士の言葉でいえば、

~ 死後の世界の体験の多くは、ここで想定されているような、種類の

      生理学的緊張が生じる以前に起こっている。


~ 肉体に全く、損傷を受けていない状態で、このような体験をした例もある。

ということになる。 


つまり、本来、肉体、特に、脳に大きな損傷を与える場合起こり得る現象が

損傷を全く伴わない場合でも、体験事例として報告されているというのだ。

 

神経学的解釈というのは、神経障害を起こしている人が幻覚を見る

場合をさす。

脳、せき髄、および神経に病気の原因があると診断されて治療を

受けている場合、こうした例が起こり得る という考えを 

神経学的解釈 という。


この場合、脳内部の焦燥の集中によって、起きる発作と死後世界体験

をした患者の報告と類似点はある。 


それは、三次元の視覚的イメージの鮮明さ、その映像が本人の意図

とは無関係に浮かぶという点だ。


一方、違いといえば、そのヴィジョンを観ながら、前者の神経障害者の場合、

一連の心象を想いだすことはできないという点だ。 


後者は、ヴィジョンは人生の歴史的順序に従い、そのヴィジョンを見ながら、

反省を促されたり、今後の指標を自覚するという教育的要素があると 

一様に、語っている。

 

心理学的解釈というのは、隔離実験などで、一室に外界との接触をたって

こもった場合に体験する事例 と、死後世界の体験事例 とが重なって

いるとする説だ。

つまり、瀕死の患者たちは病院のICU病棟で、隔離され動けず、

時として音や光からも遮断された病室で 見舞客も訪れない状況に

置かれる場合がある。


心理学的に幻覚をみたこうした、患者の報告には 

”自分の生涯におけるさまざまな出来事がパノラマのように浮かび上がった”

とあり、舟の難破により何週間も漂流した船員は、小さなボートの中で

救出される幻覚を見たという方向もある。


ムーア博士は、この心理学的に隔離された中で起こる幻覚と、死後体験

の人たちとの共通する条件として、

~ 時間的感覚が狂う

~ 物理的肉体からの部分的な遊離感

~ 社会に復帰した際の内面的変化


を挙げ、明確に、死後体験した人との違いは無く、一線上に、これらの

体験が存在する場合もあるかもしれないとする。

 

私も この時点で、ヒマラヤに一人で住むというヨギ、聖人、

あるいは、修行者の話と重ねている。


一人、孤立すること、それは、ある意味で死ななければ、味わえない、

魂の解放感を、孤独の隔離された生活を続けることによって、味わえる

という、先人の教えでもあるからだ。


社会的生活を送る一般人には、奇異な話ではあるが、現実に、こうして

生活する、人 も 印度のヒマラヤの奥地では存在する。 

いつか、そのお話しもご紹介できればと思う。

 

さて、最後に、ムーア博士は、このさまざまな解釈による、死後体験の実例の

主人公たちにたいする幻覚説 に対して、自らこう反論を試みている。


第一に、これらの人々は博士が直接面接しているが、一人も精神病患者では

ないという事実。

精神的に安定して、正常な社会人である上に、夢と現実の識別はできる人たちで

るということ。


そして皆、自分の体験は夢ではなく、事実であると、はっきりと博士に

語っている点だ。

第二に、これらの人々の体験記は、報告内容と、その中の出来事が生じる順序が

類似していること。

そして、博士がそれまで紐解いた、古文献や秘教的書物に書かれている死後の

世界の描写が驚くほど一致していることなどを挙げている。

      

  

 続く~


参考:

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

中山 善之訳 評論社 昭和58年


レイモンド博士について: 

バージニア大学、大学院で哲学専攻 

1969年 哲学博士号取得、 3年間 ノースキャロライナ

東部の大学で教鞭をとる。 

1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。 

1965年 死後の世界の体験談を 聞き、その後、死後の

世界体験者に面接。 

特異な分野研究を行い今日に至る。

 

 

コメント (3)
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