自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヴァカバッド・ギータの反応

2013年03月10日 | 協会ホームページ

突然の熱いコール  平成25年3月10日

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この4~5日間のお話です。

ブログの解析を見てみますと、ヴァカヴァッド・ギータのブログを

開いてくださる方達の数が半端ではありません。


昨年の12月6日と13日に書かれた、記事のことです。

ときには、トップページより、多いのです。。 

以前、関西で 一年にわたって、月一度 ヴェーダ講義をさせて

いただいていたとき、ぜひ、”ギータを、読んでみたい” という声を 

熱心なヴェーダ受講者からも、いただいたことを思い出しました。

ブログ(平成24年12月6日)でほんの、さわりを取り上げてみてます。


この話は、クリシュナ神と 弟子アルジュナの会話形式で運ばれる、

闘いの場を背景にした、深い哲学と人間の本質を掘り下げる内容です。


ヴェーダの真髄が、書かれているものとして、インドでは、TVでも

放映されこよなく、廣く愛されていテーマでもあり、物語でも

あります。


自分自身、これを、ブログで書く内容かどうか、実は 戸惑いが

ありました。

というのも、このブログは、多くの、様々な分野に興味のある方達が

目を通してくださっていることと、書かれている主旨は、私たちの

本質である、円満な生命と意識(大我)の気づきの きっかけ 

にでもなれば、ということだったからです。


協会は、宗教組織 でもないし、特定の神を断定することでもないので

誤解を招きたくないということもあります。

昨日、拙宅でセラピーをして帰られた方も ポツリと漏らしていたこと、

それが私の戸惑いを代弁しています。


”ヴェーダの哲学 といっても、聞く人によっては、インド宗教の

一つととらえているかもしれない” 

と言われた言葉でした。


私自身、ヴェーダ哲学と、ヒンズー教(現代のインドの国民的宗教)

とは 違うと考えています。

それは、上記であげた理由です。

つまり、特定の神々の信仰心抜きにはヒンズー教は語れませんが、

ヴェーダ特定の神々ぬきに、語ることは可能だからです。


ヴェーダの中で説かれている本質は、自分自身の中に、すでに、”完全性”が

宿っているということなのですから。

宗教というのは、なんでしょう?

宗 というのは、おおもと を意味します。 あるいは、統括 という意味も

含まれているかもしれません。 


その字のしめすとおり、教えのおおもと である、つまり、大きなすべてを

統括する、一つの智慧、それが、宗教の字の、もともとの意味ではないか

と思います。


ですから、 最近。どなたかの投稿にも表現されていたように、

”宗教によって、いじめも生じたり、圧力を加えられる” 

という、バイアス的な感じ方は、何かの歪みによって、生まれてきた

ものだと思います。


実際、ヴェーダの生まれた紀元前5~6世紀 (と学者は言いますが、実際は、

5000年以上前ではないかと、私は 感じて います)には、学者たちがこぞって、

ヴェーダを勉強したものと思われます。


なぜなら、この本は、哲学のみならず、医学、天文学、音楽、などを取り扱い、

そういう意味合いから、本質的な智慧の書、宗教書、つまり、すべてを扱う

知識の宝庫であったからです。


現在、世界中には多くの神様の名前があり その名前のもとに、多くの宗派が

生まれています。

しかし、神様たちの名前はたくさんあれど、真実は一つであるということ

それが真理です。

古今東西問わず、宗教 を真に勉強した方なら、その真理を、素直に理解

されると思います。


この神様でなければ救われない と言っている限り、神様の名前に捕らわれが

あり、神様の述べている真理の本質を 理解していない ということを露見

するだけでしょう。

そう考えれば、どんな宗教であれ、信仰は個人の自由であるとともに、

その宗教の説く、本質的 な教義 は、ある意味、普遍的なものであり、

尊敬が払われるべきだともいえます。


それぞれ、他者の信仰、あるいは、信念に対して、尊敬が払われれば、

宗教の押し付けもなく、ましてや、いじめや圧力を加えるという、社会的嫌

がらせも無くなるでしょう。


もし、その教義の中に、普遍的なものが無い とすれば、一時的な新興宗教

として、注目は浴びても、いつの間にか、世間の波の中に、消えていくこと

でしょう。


普遍的なものが無い宗教は、”欺瞞と独善”、”不当な欲望”と”利益の獲得”に 

充ちています。

”人の命を大事にしない”、”偶像崇拝心理を利用して、信仰グッヅを売りつける”、

”憑依霊除霊と称して信者の恐怖心”をあおりたて、”不当な報酬”を払わせる、

”教祖崇拝”を徹底させ、自分自身の中の真に信頼すべき力があることに

気づかせない” などが、儚い宗教教団の特徴です。

 

そこまで徹底していなくても、場合によっては、脅迫観念を与えて、

孤立させたり、これに入らなければ、失敗するから という脅し文句で

無理やり引っ張ろうとする気迫(悪い意味で)に満ちた 信者もいます。

これらの現象は、宗教の名前を借り、人の悲しい性(さが)が、強欲

(金銭・権力)という、目には見えない欲望に駆り立てられた挙句の 

結末的行為だと思います。

今、まだ、協会が発足して、歩き出して、半年たったかたたないかですが、

機会があれば、ぜひ、拠点となる、会場(オープンスペース)を整えて、

こうした、さまざまな 現代まで残る 普遍的な聖典 から、真理という

一つの法則を、引き出して 勉強できる機会を設けたいと考えています。

アートマセラピーなどのワークショップも行いたいと思います。


その中で、ヴァカバッド・ギータはぜひ、取り上げてみたい書であることは、

いうまでも有りません。


今、 ブログで、死 について、とりあげています。

死 は 生の裏返しだから、死を読み解くことは、生を考える事だから と

理由を申し上げました。


一つの現象、何でも、その奥をたどっていくと、結局、”おおもとの教え・

真理”にたどり着くだろうというのは、私の仮定する真実 でもあります。

だから、科学でも、化学でも、テクノロジーでも、結局、一つのおおもと

(起源) を目指して、突き進んでいるのだと言えるでしょう。


東洋的&西洋的文化、右脳と左脳、科学と宗教、これらの 相対する、

バランスが 今後ますます、取られつつ、法則(真理)が解き明かされて

いくでしょう。


ヴァカバッド・ギータ は 今、私の、目の前の本棚で、眠っています。

いつか、また近いうちに、機会があれば、必ず紐解かれることでしょう。

そう、願っています。


突然、今日この場で 予定のテーマ(昨日の続き)を変更して、この、ブログ

を書かせていただきました。

昨年12月の記事への多くの皆様の反応は、ヴァカバッド・ギータへのご声援と

受け止めています。

ありがとうございます。

明日も ギータにちなんだ記事を予定外で投稿します。

    

 

 

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