自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

安楽死

2013年03月21日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

患者の選択肢  平成25年3月21日

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”不時の死との戦いの中で、発達してきた技術が、老齢患者が

その生理的、心理的事態の変化に適応するのを助けるのに、必ずしも

妥当ではないことを 常に心に留めて置かなくてはならない。”*1

簡単に言い直せば、医療技術が発達していても、その技術を持ってして、

完治し、あるいは、癒されても、必ずしも、適当な処置であったかどうかは

疑問が常にのこるものだ~といいかえられるだろう。

この言葉の背景に、施術後の患者の死が、医療関係現場で、どのような反響を

与えるかという 暗黙の同意がある。

患者の死は、医学的技術の失敗或いはそれにかかわった医師の失敗と

みなされる現実があるということだ。

少なくてもある時代までは、医療専門家たちは、患者の生命を維持することは、

いかなる、犠牲を払っても果たすべき第一の責任義務として

最重要だと思われていた時代はあった

 

尊厳死 といわれる患者が自ら選択して 死 を選ぶことに対して、どれだけ

配慮がなされてきたか、ということは、言い換えれば、死 をどのように 

患者も 現場に携わる人たちが、見据えているか という問題と、密接に

かかわりがあるだろう。

いわゆる、安楽死を 患者が密かに、望んでいても、それに対して、適切な

対応ができたかどうか~それは、そうした、責められる立場になりがちな

担当責任者の立場からみると、矛盾がでてくるところかもしれない。

これまで、ブログで取り上げてきたように、魂のケア が十分になされてきた人の

場合、死 に対する心構えは、何も考えず、いきなり、死に直面する人とでは、

はるかに異なるだろう。

キュープラー・ロス医学博士の、”On Death and Dying” 

(*2)の中で、筆者が興味を持ったのも この部分だった。

特に、あまり、馴染みのない、ユダヤ教の教えのなかで、この安楽死を

どう取り扱うかというところは、印象的だった。

尊厳死 を二つのパートに分けている。

一つは、まだ病気の臨終段階に至る前で、”末期疾患”と著書の中では規定している。

二つめは、最終段階 でもあり、”死にゆくこと”を前提とした状況である。

 

第一段階では、ユダヤ教の掟により、”積極的安楽死を疑問の余地がない殺人とみなしている

のであり、”生命の維持と延長”のために、あらゆる努力がなされなければならないとしている。

 

第二段階では、これほどの厳格な禁止はなく、

”生命の消滅(字義的には、霊魂が肉体から脱出すること)を妨げるなんらかの、外力が働いて

 いるならば、これを除去することは許される

という、注釈によって、安楽死を 暗黙に認める発言がみられるのだ。

安楽死というのは、大きな枠でとらえれば、死期を早めて、患者の苦悩を救うということだけでは

ないだろう。

飯田教授のグループが研究されているように、死後の世界 の 仮定を一般的に、

受け要られていけば、死に対する想念が、若干 タブー視する現在の状況

と異なってくるだろう。

文字通り、安心して、楽な気持ちで、死 を受け入れられるようになれれば、

大きな効果を奏するだろう。

ユダヤ教でも、同様な考え方があることを知った。

同著で、ソロモン・シェチュター(1847~1915)が述べている言葉がある。

”最終告白の、精髄である、後期ヘブライ語の テシュヴァー=懺悔 という観念は、

神との和解手段の意味である。” として

”それゆえ、告白は、苦悩を与えるものではなく、なぐさめを与えるものである。

 告白の基本形式は安堵を与える性質を持っている” と 述べる。

その告白の基本形式が次の言葉で言い表されている。

”わたしは 輪が神であり、わが父祖の神たる、主、あなたの御前に、私の癒しも

 死もあなたの御手にあることを認めます。~1

 ねがわくは私を完全な回復のうちに、癒すことがあなたの御意思でありますように~2

 しかし、もし、私が死ぬのならば、私の魂が、これまで、私があなたの御前で犯した

 すべての 罪を償いますように。~3

 この私に、来るべき世にいる場所を お与えください~4”

(数字は筆者の書き込みです)

~1 のラインでは、

          まず、自分という小さな自我を捨てて、大いなる、自分を生かしている 

    存在をまず認めている。

    (ここでは、神 と言う言葉を使っているが、大生命、仏様、祖神様 真なる自己、

     大宇宙に流れる生かす力、など、いろいろな言い方が当てはまるだろう)

~2 のラインでは、

       自己の病が癒されることを願うが、それが、神の心にかなうならばという

   神への全託の心持を述べている。

~3 のラインでは、 

       自分が死んで、あの世へ行くとき、魂として清らかでいけるように、

   罪の贖いを求めている。 

   罪 とは、つつむ という、本来の、語源をもち、自分の真正、きよらかさを つつみ覆う 

   ということが、罪の本来の意味である。 

   よって、ここでは、罪の贖い であると同時に、魂の、浄化、清めなどで、覆い隠されている

   真の自分の清浄性があらわれるようにとの願いも含まれていると思う。

~4 最後に、魂のすみか、ふさわしい自分の居場所を願う。 

   暗闇や、怒涛の中に飲み込まれるのではなく、魂 として、永遠に安らかに存続できる

   場所を乞うのだ。

ユダヤ教の、今、見たような、療養と死 に対する考え方は、どの宗教でも、たぶん、

共通しているであろう。

つまり、魂の存在、とその行方に関し 人が必ず、いつか、死を迎え、次の段階に移行

するときに、真の意味での 安楽死 を望むということかもしれない。

 

      

*1 サイエンティフィック・アメリカン 1973年9月号、ロバート・S・モリソン博士 訳 川口 正吉

*2 死ぬ瞬間(続) 読売新聞社刊 訳 川口 正吉 1989

 

コメント (3)
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