14.5.2.“私は警告の叫びをあげた”(2)
ローマが否応なしに開いた扉は、総長の権威をもってしても殆ど閉じることは出来なかった。目下たちの典礼実験と卑劣な放埒、又は長上のリベラルな臆病の間に彼は板ばさみになっていたから。
他の会員が“各自による独自の研究”や“各自の自己養成”について公然と論られる一方で、総長は “権威がその役割の固有の領域において、それを放棄すること”に反対し、さらに“大混乱と無規律に帰結する現実主義の欠如、そしてあつかましく頑固な人を正当化し、従って、善良で謙遜で従順なものが軽蔑されるこの現実主義の欠如”に力強く反対した。
ルフェーブル大司教は同じ養成の指導者たちにこう言った。
「あなたたちには、躓きを追い払う義務があります。躓きは共通善の正反対であり、・・・傲慢の精神、不従順の精神、従順を理解しない誤った精神の躓きに気をつけなさい。」
三年後、「権威とは奉仕である」と言いながら議論する不平分子たちに面した時、大司教はこう言い加えた。
そうだ、権威とは奉仕であり、皆のための善という共通善のための奉仕であって、個々の善のための奉仕ではない。そのためにこそ、権威は
「共通善に深刻な損害を与える躓き(つまり、修道会の規律に反する公衆の面前での過失、蔓延しかねない悪い模範)に断固たる処置をとらなければならないのである。」
彼は権威に関して、ダカールでそう言ったように、つまり権威は行使され尊重されるために、権威は先ず自分自身を尊重しなければならない繰り返した。
大司教は、目下たちとあまりにも馴れ親しく接する事で「自分たちの地位が赦されるべきであっると思っている人たち」と「本当の簡素さと尊厳とがもたらす適度なバランスを見出す事のできない人たち」との二重の暗礁を避けよ、と求めた。
大量に引用してきたこの1965年に書かれた書簡の中で、権威の無気力によって権威が自己否定しそれによって生じる損害を彼は非難した。
権威の放任は、司祭や神学生たちをカジュアルな服装に導いた。イエズス・キリストの模倣を放棄した事は、
「節度の欠如、自尊心の欠如、そして隣人に対する尊敬の欠如につながる。これは、克己と天主が望まれる秩序に敵対し、不道徳と肉欲に導く。」
ルフェーブル大司教はこう結論する。
「私たちは、私たちのアッジョルナメントをしよう、聖性の根源を台なしにする破壊的新プロテスタント主義の精神においてではなく、刷新と改革に関わった全聖人たちを鼓舞していた聖なる望みにより燃え立った精神において、私たちのアッジョナルナメントをしよう。何故なら、彼らは十字架上の聖主を愛し、さらに従順、清貧、貞潔を実践したからである。そこで、彼らは犠牲、奉献、そして彼らを使徒にする祈りの精神を獲得したのだから。」

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