ホームレスになった司教
大司教は修道会本部を去った。手には質素なスーツケースが一つあった。フランス人神学生が彼を見つけ、そして尋ねた。
「そうやってどこへ行かれるのですか、大司教様?」
「わかりません . . . 」
「お手伝いしましょうか?」
「ありがとう。でも大丈夫ですよ。」
彼は先ず、11月1日、マキアヴェッリ通り(Via Machiavelli)にある聖霊会館に避難所を見つけた。その少し後で、ヴィッラ・・リトゥアニアにあるカサルモンフェッラート通り(Via Casalmonferrato)にあるリトアニア人神学校に属する修道女たちにより維持されていた小さな寄宿舎に移った。彼は机、衣類戸棚、さらに幾つかの棚を購入した。そして家賃としてやっと支払える9万リラを持っていた。これは、顧問役としての、さらにはアフリカにおける公教要理を担当する委員会の委員長としての肩書きゆえに、毎月彼が布教聖省から受領していたものである。これが、1972年まで大司教が維持された任務であった。
非キリスト者のための事務局の創設が、事実上、布教を没落させたにもかかわらず、彼は喜んで、アフリカに関して持っている知識を布教聖省が利用できるようにした。しようと思えば彼はアフリカに渡り、自分がかくも大きな重要だと考えていた伝道師(カテキスタ)たちを養成するセンターを訪問することも出来ただろう。しかしこの考えは彼を惹きつけなかった。63才という歳で、さらに実際、“出世の終わり”と言う時に、彼はこのような軽い責務に満足することは出来なかった。彼は内側から自分が押され、しつこく他の仕事をするように強いられるのを感じていた。
一方で、シガウド枢機卿に打ち明けていたように、彼は1966年以降実現して来たような、刊行物を通しての“進歩主義に反対する戦いに、全面的に専念”したかった。もう一方では、依然として彼は、友人であるモリロ(Morilleau)司教や、親友の相談相手であるミシェル・オカロル神父に打ち明けていた「国際神学校」という着想を常に持っていた。
「オカロル神父様」と大司教はある日、彼に言った。「もしも万が一、修道会を去らなければならなくなったら、私は聖伝の神学校を創立して、三年以内には、150名の神学生を有するようになっているでしょう。」

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