再建覚悟の司教たちのグループを作る
ルフェーブル大司教は思い出をこう語っている。
「公会議の終わりに、私たちは、もっとも活動的で熱心で、かつ堅固なチェトゥスのメンバーたち--30人程いたのですが--と一緒に、解散前の慎ましい懇親会、兄弟的な食事会を催しました。記念撮影をし、聖伝のための闘争を続けていけるように、私たちは、自分たちの間で会報を出版するという約束を交わしました。」
これはルフェーブル大司教自身のアイデアであった。つまりローマの精神を共有する司教たちの間で、大司教の友人であるフランチェスコ・レオニ教授(Francesco Leoni)が、自分の雑誌レラツィオーニ(Relazioni)誌を通して、聖伝カトリック精神をもって政治、経済学の分野においてなしていたことを実現することであった。
御自分の約束を忠実に守り、大司教は、1966年2月20日、多言語による司教間の情報と批判と戦いの情報紙の発行プロジェクトを通知した。これは、司教たちが“進歩主義に対抗し且つ公会議の健全な解釈のために役立つ実用的な対策を取る”手助けとなるだろうし、司教たちが“好機を逃さずに世界規模で一斉行動を取る”ように準備し、いずれにせよ“真理の防衛と促進というローマの責務遂行を容易にする”だろう。
シンナダの大司教であったシガウド大司教に手紙を書く際、大司教はこう正確に加筆した。
「御自分が信頼を置いた人々が公教会をその滅亡に導いているという事を理解する時、教皇様は、世界中に存在する、(公教会)再建の準備が出来ている司教たちのグループに気づかれるだろう。残念ながら、その時は未だ今日ではない。なぜなら教皇様ご自身、御自分が方針を変えなければならないし、このような転換は苦しみを伴うであろう。」
当初、ノティツィエ・ポストコンチリアーレス(Notitiae Postconciliares)と呼ばれるはずだったこの雑誌は、決してその名称をもって出版されることはなかった。事実、地域の優れた寄稿者たちを発掘するには時間が掛かり、御摂理がこの任務開始の合図を大司教に与えたのは1966年7月の事であった。
ロモン通り (Rue Lhomond) の本部を訪問した際に、電話がなり、大司教はローマに飛び立つ準備をした。時間切れで、総長はオルリー空港での面会に同意したようである。スピーカから自分の名前が呼ばれるのを耳にして、大司教はフロントに行き、クロード・キヌ―ル(Lady Claude Kinnoull)卿夫人と面会した。彼女はフランスで教育を受け、現在はカルフォルニアで生活するスコットランド系伯爵夫人であり、レオン・ドゥ・ポンセン(Leon de Poncins)氏の親友だった。
「これは大司教様のお仕事のために持ってきた寄付です」と彼女は言った、「私は喜んで何度でもこういたします。」
実にその通りに、彼女が自分の右腕であるイギリス人法律家ヴェルノール・マイルズ(Vernor Miles)氏を通して何度も行うことだろう。
この予想外の贈与と、さらにオッタヴィアーニ枢機卿とシリ枢機卿との両枢機卿からの激励を得て、ルフェーブル大司教はIBMのタイプライターと、オフセット印刷機、そして“念入りで見栄えの良い仕事”を確保するためのコピー機を購入した。レラツィオーニ誌は雑誌作成の為の事務所を大司教に提供した。この雑誌は、最終的に1967年8月、フォルテス・イン・フィデ(Fortes in Fide=信仰における強者)という、より好戦的な名称で出版された。
カスタン・ラコマ(Castan Lacoma)司教は、自分の司教区の司祭たちの一人で、ローマに留学中のパドレ・ルイス・ビエジョ・モントリオ(Luis Viejo Montolio)神父がこの雑誌の出版事務所の任務に着くのを許可した。他方で、カルメル会修道司祭のフィリップ・ドゥ・ラ・トゥリ二テ(Philippe de la Trinité=聖三位一体のフィリップ)神父も出版事務所で共に働いた。
フォルテス・イン・フィデ誌の創刊号は、カルリ(Carli)司教の司教書簡や、グラベール(Graber)大司教の説教、さらにピエール・ヴィリオン(Pierre Virion)氏の著書『世界統一政府の前に超対立教会が?(Avant le gouvernement mondial, une super contre-Eglise?)』の書評を掲載した。しかしながら、司教たちの協力、しかも最も優れた司教たちまでが参加したことは、これがデリケートであることを明らかにした。ルフェーブル大司教がカンポスまで行って訪問することを提案していたカストロ・マイヤー司教は、ルフェーブル大司教にこう返事をした。
「私たち― 貴方や、シガウド大司教、そして私 ―にとって、匿名でいられる別のもっと大きい街で会合する方が好ましい。・・・さらに、もしサン・パウロ州の都会から車で2時間行ったところにある農家で・・・会合する事ができるならばもっと都合がいい。」
加えて、カストロ・マイヤー司教によれば、ディアマンティーナ(Diamantina)にいるシガウド大司教の下にいる聖職者は“数人の例外を除けば、刷新に賛成であり、さらに残念ながら、シガウド大司教は、特に彼の最近の病気以後、このような状況に立ち向かう勇気をもはや持ち合わせていない。”
石橋を叩いて渡るようなシオンのノストル・アダム(Nostor Adam)司教は、一年前、この会報立ち上げに心からの歓迎を表明していたが、この雑誌を自ら定期購読せずまたそこに自分の司牧書簡を掲載させないのが良いだろうと判断するとし、その理解を求めてきた。
後援者たちのお陰で、この雑誌は数百名の講読者だけで細々と生き延びた。しかし、司教間の絆というアイデアは実現不可能であることが分かってきた。そうこうするうちに大司教はローマに土地を賃借し、良質な書籍を販売する国際書店を開いた。それは1968年と1969年の間営業されていた。
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