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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 15.3.3.ところでブニーニとはいったい誰か?

2009年12月29日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. ミサの改革に直面して

ところでブニーニとはいったい誰か?

 布教宣教会司祭(C.M.)アンニバレ・ブニーニ神父は『エフェメリデス・リトゥルジチェ』(Ephemerides Liturgicae)誌の編集長であり、1948年から1960年まで「ピオ十二世委員会」(commissio piana) のメンバーであり、その後1962年まで公会議前委員会の秘書を務めた。

 しかしながら、1962年、公会議典礼委員会会長ララオーナ(Larraona)枢機卿の要求でヨハネ二十三世は、ラテラン大学の典礼学の教授職にあったブニーニを解雇した。「私は聖像破壊者【ここでは因習を破壊する者の意味】として非難された」とブニーニは認めている。

 この“良き教皇ヨハネ”でさえも、ブニーニの公会議典礼委員会の秘書の任命は認めず、代わりにフェルナンド・アントネッリ神父を任命した。これに対しパウロ六世は、1964年にブニーニを典礼憲章実施評議会の秘書として任命することにより、この男になされた“不当な扱いの撤回”を望んでいた。

 しかしアンニバレ・ブニーニが典礼憲章実施評議会の総会に、プロテスタントの牧師6名を、オブザーバーとして出席させるよう要求したということは周知の事実である。さらにブニーニは、すでに1965年に、彼の言う、別たれた兄弟たちにとって “躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除い”て、聖金曜日の荘厳祈願を変えていなかっただろうか?

 さらにルフェーブル大司教は、壁外の聖パウロ大修道院長チェザリオ・ダマト(Cesario D’Amato)大司教【Nicola Gianpietro, “Il Card. Ferdinanodo Antonelli e gli sviluppi della riforma liturgica del 1948 al 1970”, studia anselmiana, roma, 1998.】がこういうのを聴いたことがあった。

「大司教様、ブニーニのことについてはお聞きすることは出来ません。私は彼を知り過ぎているのです。ですから、彼が何物なのかをどうかお聞きにならないでください!」

 さらに彼がそれでも問い続けると、この大修道院長は
「私にはブニーニについてお話しすることが出来ないのです。」と答えた。

 フェルナンド・アントネッリも同じような事を書いている。
「あの男について、私にはかなりのことをお話しすることは出来ました。彼が常にパウロ六世によって支持されてきたという事は言うべきでしょう。あの男のもっとも大きい弱点は養成の不足と神学的センスの欠如です。」

 1969年2月、大司教は、まだ国務聖省長官だったアムレト・チコニャーニ(Amleto Cicognani)枢機卿を訪ね、あの新しい典文についてどれほど嘆かわしく思っているかを伝えた。ルフェーブル大司教はお願いした。

「枢機卿閣下、貴方がこのままこれを放置する事は許されません!これは典礼の中における、いや公教会の中における革命です。」

 枢機卿は両手で頭を抱えながら言った。
「ああ大司教様、同感です。しかし私に何をしろと言うのですか? ブニーニ神父は教皇聖下の事務所に自由に出入りし、何であれ彼が望む事には署名をいただく事が出来るのです!」

 大司教は後に「それを聴いたのは私だけではありません。枢機卿は私に話していたのですが、国務聖省庁内の人々もそれを聴いていたのです。」と付け加えた。

 それから大司教は、コアシュ(Coache)神父と共に典礼聖省に出向き、そこでグート(Gut)枢機卿に、手による聖体拝領(これについては、実施を認める教令が既に典礼憲章実施評議会で準備されつつあった)に関する意見を述べた。モンシニョール・アントネッリの面前で、典礼聖省長官であるこの枢機卿は大司教に告白した。

「私は典礼聖省の長官ですが、私がここで命令を下しているのではありません。誰が実質的な長官であるか当ててください。」

 すると今度はアントネッリに向き直りこう続けた。

「もしも私が考えていることをしてほしいと頼まれるなら、私は教皇聖下の御前に行ってその足下に跪き、このような事を許さないで下さいと懇願するつもりです。もし頼まれるならですが!」

【グート枢機卿は大変つらかったが手による聖体拝領を許可する指導書(1969年5月29日づけ)にサインをした。これは教皇の望みを叶えたいというためにいやいやしたことであった。ブニーニ『典礼改革』p. 101】

 典礼聖省長官を飛び越えて、ブニーニが持つパウロ六世に対する影響力と決定の「独裁的な」やり方は、ルフェーブル大司教にとって謎であった。

 1974年、大司教は言った。

「教皇聖下とアンニバレ・ブニーニが掌握する諸組織の間で、容認しがたい事が行われているのは間違いない。すべての秘め事は後ほど明らかになるだろう。」

 1975年7月11日になされた典礼聖省と秘蹟聖省の合併に際し(つまり秘跡典礼省 – the Sacred Congregation for Sacrament and Worship -となり、後に改名されて典礼秘蹟聖省 The Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacramentsとなる)、パウロ六世がブニーニをその職務から解任し、6ヵ月後、彼をテヘラン駐在の教皇大使代理に任命した時、大司教は、「その秘め事を知った」と信じた。ブニーニが紛失した疑惑のスーツケースから自分がフリーメーソンであるという事が明かされていたという噂が広がった。しかしながら、ブニーニ自身は自分がフリーメーソンについて、“彼らが何者で、何を行い、又は何が目的なのか”は何も知らない、とパウロ六世に断言した。

 1976年、ブニーニと、いわゆるグランド・マスター(秘密結社のロッジの会長)と間の一連の怪しい手紙が、1963年から1971の間にローマの秘密結社に属していたローマ・クリアの多くの高位聖職者と、他の人物とが記されたリストと一緒に、流れ回っていた。それによれば、ブニーニは、結社の会員から“ブアン(Buan)”という秘密コード名をもらい、1963年4月23日に結社会員となったとされていた。

 ルフェーブル大司教はこの噂と怪しい文書を信じた。彼は次のように書いている。

「典礼改革の指導者だった人は、フリーメーソンであったと、私たちはまさにローマで知らされた。」

 この件には神秘あるいは疑惑が残っている。

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