V. 真のアッジョナルナメントに向けて
“聖霊の侍従会”の復興
大司教は、の聖霊修道会の修練期を損なうような刷新に対しては徹底的に反対していたが、司祭叙階の後に修練期を置くような養成の再構成には極めてオープンな用意が出来ていた。私たちがここで理解するのは、ルフェーブル大司教は、頑固などということからはかけ離れ、修道会創立者が敷いた路線に忠実である限り、大胆な刷新に理解があった器量の大きさである。
“誓願を立てた多くの修道司祭たちが、自分たちの修道生活にあまり愛着がなく、誓願免除の要望の数が着々と増加する”一方で、”多くの若き修道士たちが自ら宣立した誓願を免除してもらったという事実に鑑みて、多くの召命が、“信念からではなく、貧困が原因であったり、宣教のためにとメンバーたちを送るその送り先である世間に単に属しているだけであったりとか、または修道会の精神に対する何らかの魅力を感じることによって”修道生活に入っている事は明らかである。
1967年1月25日、彼は聖霊修道会のメンバーたちに心を打ち明けた。それは将来見込まれるメンバーたちの受け入れに関して提案された改革と一緒に、“クロード・プラール・デ・プラス(Claude Poullart des Places)神父の事業復興のための提案”の出版により行われた。小神学校は幼年期から捜し求められる召命に生徒たちを強いることなく、宣教師の理想的人物を目指して彼らを指導するために維持されていた。大神学校は“司祭生活と誓願を立てた宣教師の生活の為の聖職者養成のための研究に要する予備学年”で始まっていた。この一年間、大神学生たちは、ラテン語と護教学を学び、さらには聖書学、教父学、そして神学の初歩を学んでいた。興味深い事に、霊的な教義に関する授業(霊性学)は初学年度の教育課程にはなかった。
そのとき総長は、聖書学、教父学、教導学、さらに教会法の短期課程と合わせて、聖トマスの神学大全に則った教会学研究の5年間があるべきだとして提案した。これは唯一無二の根源を提供し、
“大神学校生は天主、イエズス・キリスト、霊魂、そして天主に至る道に関する知識の、偉大で深遠なることを見出して感動するだろう。彼は自らの発見に魅了され、さらに彼の霊魂は熱意、孝愛、信仰、そして天主に関する正確で深い知識を他の人々にも知らしめたいという偉大な願望に満たされるだろう。”
健全な哲学は、“社会、政治の両学問に関する厳密な諸原則“と同様、この統合の中に適所を見出すだろう。
最後に、“教会の下僕という名義で(ad titulum servitii Ecclesiae)” 執行される叙階式の後で始めて、新司祭は、一年の修練期間を伴う聖霊修道会に入会し、終生誓願を立てるか、或いは、又は宣教司教区、又は司祭の不足している司教区に所属するかを選ぶことになったはずであった。
後者のケースにおいては、これらの司祭たちは、ルフェーブル大司教によれば、“私たちの初代創立者、クロード・プラール・デ・プラスが創立した聖霊の侍従会の事業が新たに生まれ、あるいは復活する”ことだった。これは、それとの間に既に存在している“霊的きずな”と共に、固有の意味での聖霊修道会士の身分を害するものでは全くなかった。
大司教はこの再導入から生ずる利点を強調した。司教区での会員募集の試みはより良く受け止められ、在俗聖職者と修道聖職者との間は近づき、富める司教区と貧しい司教区の間で、司祭たちのより適切な配置が行われる。“聖霊の侍従会は一つの会(association)、つまり、聖霊修道会によって組織され、支援されるだろう兄弟会(fraternité)を結成することが出来るだろう”と大司教は付け加えて言った。聖霊の侍従たちと聖霊修道会の司祭たちとに共通の司祭養成のための施設は、“司祭たちを送り出す国際神学校”となるだろう。
全く新しい可能性を開花し、単なる原初の模範への復帰にまさるキーワードを二つ私たちは強調してきた。残念ながら、ルフェーブル大司教の抱いた非常に聖伝的で、あまりにも刷新的な計画は、聖霊修道会の最も聖伝主義のメンバーたち、あるいは最も進歩主義的なメンバーたちの関心を惹きつける時間がなかった。しかしながら、この修道会の外で、彼の計画は予期せぬ共鳴を得ることになったのである。
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第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出
II. 掃除と改革
III. より優れた組織編成
IV. 修道生活と使徒職
V. 真のアッジョナルナメントに向けて