新しいミサの通常文 ― 真っ先に起きた反発
アンニバレ・ブニーニは、従来とは違う聖変化の言葉や、(キリストの御血の聖変化の言葉を構成していたにもかかわらず聖変化直後に)“信仰の神秘(Mysterium Fidei)”という言葉を移動させること、‐ この移動によりこの言葉は、信徒たちをして、過ぎ越しの神秘と終末論的神秘の宣言へと招くという新しい意味が与えられた ‐ を伴う、三つの形式のミサ典文を使用する許可を取り付けようと、10ヶ月間、パウロ六世のもとに、6度にわたって押しかけた。オッタヴィアーニの下にある検邪聖省には特に目立った異議はなかった。
パウロ六世が同意してしまったので、礼部聖省 長官、グート枢機卿は、1968年5月23日、三つの形式の典礼文の使用を8月15日から認める勅令に署名したが、それは嫌々ながらも、教皇への従順のためであった。
「フランスでは、三つの形式の中で最短の第二ミサ典文(Canon II)が、一般に最も使用されている」とルフェーブル大司教がこの枢機卿に言うと、それを聴いて枢機卿は打ち砕かれてこう答えた:「そうなるだろうと私は言っていたのです!」【この会話は1969年2月13日のことであった。】
それにもかかわらず、長官のグート枢機卿と事務長のブニーニによって署名された1968年6月2日付けの典礼憲章実施評議会の書簡は、三つの “アナフォラ” とそれに関する文書と合わせて各国の司教評議会に送付された。そこに同封されていたある論説は、司祭の役務や聖変化の言葉には一切言及せず、“今や活気溢れるミサの能動者となり、もはや聖なる行為の中で音一つ立てない観衆ではなくなった信徒たちの情熱” に息づく喜びに言及しつつ、これらの “直線的な構造と明瞭な形式” を賞賛していた。
ウナ・ヴォーチェ国際連盟は8月14日、1968年10月のヌヴェル・ドゥ・クレチアンテ誌の中で、ドン・エドゥアール・ギュユーが力説した “強調点の明らかなすり替え” を非難する声明文の発行をもって反発した。非難の対象になった点とは、 “信仰の神秘”という言葉を、聖変化の言葉から取り出して移動し、信徒の歓声に変えてしまうことで、全実体変化を “記念”のうちに霞ませた事である。
しかしながら、典礼憲章実施評議会 はミサ通常文において、最期の目立たない削除を行った。それは、「小典文」とあだ名されるほど犠牲的意味をもっていた奉献文(Offertorium)を、「曖昧さを取り去る為」という口実のもとに、これを廃止したこと、新しい3つのミサ典文と調和するように、ローマ・ミサ典文を修正(聖変化の言葉)したことである。
1969年4月28日の教皇枢密会議 で、パウロ六世は新しいミサ通常文(Ordo Missae)を予告した。5月2日、記者会見室にて、4月3日付けの使徒憲章『ミッサーレ・ロマーヌム (Missale Romanum)』と、長い「総則」によって導入された、新しいミサ通常文(NOM)の小冊子が併せて発表された。
一部のプロテスタントたちはこの新ミサ通常文への賛同を即座に表明した。テーゼ(Taizé)というエキュメニカルな共同体の、マックス・チュリアン(Max Thurian)修道士は、5月30日のラ・クルワ誌 でこう述べている。
「おそらくその成果の一つとして、非カトリック共同体が、カトリック教会と同じ祈りを使って聖なる晩餐を執り行う事が出来るという事でしょう。それは神学的に可能です。」
デュラック(Dulac)神父は 6月25日のクリエ・ド・ローム誌 で反発した。
「私たちは、いかに小さなことであったにせよ、曖昧な事柄にいかなる寄与もしません . . . よって新しいミサ通常文に従うことを拒否します。」
7月10日、彼はこの拒絶の意味を詳細に説明し、パウロ六世宛の陳情書を上げ、教皇による新ミサ通常文の「根本的な見直し」を求めた。
「この陳情への結果を待つ間、私たちは慎ましく、また平和のうちに、全く天に開かれて、聖ピオ五世の憲章(Constitution)と4世紀に及ぶ全世界での慣習とによって保証されている【今までのミサ聖祭を挙行する】自由を行使します。」
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