Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】温暖化データねつ造疑惑のニュース

2009年12月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「地球温暖化」の話題ですが、そのデータがねつ造されていた疑惑があります。すこし遅くなりましたが、幾つかニュースをお知らせします。もし本当なら「温室ガス25%削減」など見直さなければなりません。ご参考までにどうぞ。


温暖化データねつ造疑惑 衝撃強く、欧米で大騒ぎ
http://www.j-cast.com/2009/12/09055808.html



地球温暖化は捏造か、英大学から流出したメールが問題に
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2671098/4994431


過去150年の 「地球温暖化」 にデータ捏造の疑い―"Climategate"
http://island.iza.ne.jp/blog/entry/1347921/


「温暖化は捏造」論争が過熱:メール流出で
http://wiredvision.jp/news/200911/2009113022.html


環話Q題 [急]地球温暖化データにねつ造疑惑(09/11/26)
http://eco.nikkei.co.jp/column/kanwaqdai/article.aspx?id=MMECzh000025112009


温暖化科学の虚実 研究の現場から「斬る」!(江守正多)
過去1000年の気温変動の虚実(09/11/27)
http://eco.nikkei.co.jp/column/emori_seita/article.aspx?id=MMECza000024112009


太陽黒点100年に1度の低水準 温暖化どころか「寒冷化」?
http://www.j-cast.com/2009/06/09042859.html


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


メシアに関する旧約聖書の黙想(続き)

2009年12月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちの主イエズス・キリストの御降誕が近づいてきました。そこでメシアに関する旧約聖書を続けて黙想することを提案します。

 預言者イザヤ(9:6-7)によると、メシアは小さな赤児の姿で私たちに与えられることでしょう。

「私たちのために一人のみどりごが生まれ、子が与えられ、その方には王のしるしがある。
その名は、巧妙な顧問、力ある天主、永遠の父、平和の君ととなえられる。
彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を
法と正義をもって今もいつまでも堅め強められる。」


 預言者イザヤ(29:14)によると、メシアは学問のない人々に囲まれ、彼らによって知恵者の智恵を辱めるでしょう。

「見よ、私は不思議なしるしを豊かに与え続けよう。その知恵者の智恵は滅び、賢者の賢さは消える。」

 預言者イザヤ(29:14、61:1)によると、メシアは苦しむ人々や傷ついた人々に教え、慰めるでしょう。

「天主なる主の霊は、私の上にある、主は私に油を注がれた。
苦しむものによい便りを告げ、砕かれた心の傷を巻き、奴隷に自由を、囚人に出獄を告げるために。」


 預言者イザヤ(53:2-3)また智恵の書(2:12-25)によると、メシアは謙遜であり、貧しく、軽蔑されるでしょう。メシアは私たちの罪のために突き刺されるでしょう。

「彼には私たちの目をひくほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。
彼は、人から軽蔑され、捨てられた。
苦しみの人、苦しみになれた人。
その前では、顔を覆いたくなる、そんな人のように、見下され、無視された人。
実に彼は私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った。
私たちは彼を天主に罰せられたもの、打ちのめされ、さげすまれたものと考えた。
彼は私たちの罪のために突き刺され、悪のために押しつぶされ、
私たちを救う罰が彼の上に襲いかかり、その傷のお陰で私たちは癒された。」

「正しいものを陥れよう、彼は邪魔者で、我々の行為を非難し、
律法を批判するわれわれを責め、教育の裏切り者と非難するからだ。
彼は天主を知っていると誇り、自ら「主の子」と名乗っている。
彼は、われわれの考えの生きている非難で、見るだに息苦しい。
その生活は、他の人々と違うし、その行為は一風変わっている。
彼の考えではわれわれは不純物で、汚れたもののように、われわれとはつきあわない。
正しい人の最期は幸せだといい、天主を父にしていると誇っている。
彼の言うことが事実かどうか、やってみよう。
彼がどんな最期を遂げるか見よう。
正しい人が天主の子なら、天主は彼を支え、敵の手から守るだろう。
彼を侮り、苦しめて、試してみよう。そうすればその柔和が分かるだろう。
忍耐が本物かどうかを見よう。
恥ずかしい死の宣告を下してやろう。彼は援軍が来ると言っているのだから。」



 預言者イザヤ(53:7、16:1)によると、メシアは柔和な子羊のようであるでしょう。

「非道に扱われた彼は身を低くし、口を開かず、屠所に引かれる子羊のように、毛を刈る人の前で黙す羊のように、口を開かなかった。」

「地のかしらに子羊を送れ、荒れ野の地の道を通ってシオンの娘の山に送れ。」



 預言者イザヤ(35:4-5)によると、メシアは盲人を癒し、耳しいを癒し、奇跡を行うでしょう。

「元気を出せ、恐れるな、天主を見よ、仇討ちと天主の報いが来る。主は救いに来られる。
その時、盲人は目を開け、耳しいは耳を開く。
その時、足なえはしかのように飛び、おしの舌は喜び叫ぶ。」



 預言者ザカリア(9:9)によると、メシアはロバに乗ってエルサレムに凱旋入城することでしょう。

「シオンの娘よ、喜びいさめ、エルサレムの娘よ、喜び踊れ。
見よ、王が来られる、正しいもの、勝利のものが。
彼は謙虚で、ロバに乗って来られる。子ロバ、雌ロバの子に乗って。」


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

========================

BLOG RANKINGです。クリックで応援して下さい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい


二つともクリックで応援して下さるとうれしく思います。
兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します!
========================


【関連記事】

聖ピオ十世会 (SSPX) 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 14.6.2.辞任

2009年12月16日 | ルフェーブル大司教の伝記
VI. 特別総会--辞任

辞任

 翌日9月12日、ルフェーブル大司教は、修道会聖省長官、アントニウッティ(Antoniutti)枢機卿に手紙を書き、総会で起きた事と自分が下した決断について知らせた。それから9月16日に、彼はあの総会で実施された投票の有効性に関する疑念を同聖省に提出した。それはこの投票が会憲に反していたからである。エクレズィエ・サンクテ(Ecclesiae Sanctae)の中で、パウロ六世が会憲の幾つかの規則を ad experimentum (実験的に) 変更することを、刷新に関わる諸総会に対して権能を与えたにしても、教皇は“修道的会の本性そのもの、そしてその基本的構造に手を付けること”は容認していなかった。ところが、総会に対して総長が持つ権威の除去によってそれに手を付けたと言った。

 大司教は、側近の同僚たちに打ち明けた“様々な計画について、心中思い巡らした。”その一つは、聖フランシスコの町の平和において、アシジで、この投票中に大司教を支持して来た総会のメンバーたちと総会を開くことであった。それは聖霊修道会の刷新を、その創立者の精神において成し遂げるためであった。この総会の前、分裂の予見が大司教に来ていた。

 8月15日に彼はこう書いている。
「既に、確かに苦しいが必要とされるこの浄めが、公教会と修道会において決められている。ある修道会は分裂しており、あるところはこれから分裂するだろう。公教会とその聖伝の教えに忠実に留まる修道会には召命があるだろう。それ以外の修道会は、ばらばらになって消えていくだろう。」

 ミシェル・オカロル神父によると、大司教はよく考えると、
「そのような総会を開くことは、あり得なかった。彼は、それが聖霊修道会における分裂の印になると考えた。さらにどのくらいの人が自分に従ってくるだろうか?」

 最終的に、彼はアシジで数日を静沈に過ごし、9月28日の総会への短い出席の間に読むことになる文書を作成した。それは尊者リベルマン(Libermann)の精神に忠実に留まるようにとの厳粛な警告だった。この尊者は見捨てられた霊魂たちの中での使徒職は、“常に、宣教師たちの霊魂に現存する私たちの聖主の聖性の輝きと広がりにある”ということを明確に悟った。大司教は、尊者リベルマンが“使徒職、特に、尊者がその息子たちに提昌する使徒職、しかし聖性とはまったく区別されえる使徒職を考えつく事は出来ない、・・・彼にとって聖性とは本質的に使徒的である”、と言った。尊者は自分の子(修道会士)らに聖性への手段を与えている。
「この手段とは、つまり修道生活と共同生活、これは自己否定の生活、祈りの生活、さらに兄弟愛(これら全ては聖性の発達に必要である)と使徒的熱意、あるいは聖性の拡がりを実現させる私たちの聖主との実践的な一致を実現させる。」

 ところで、ルフェーブル大司教は気づいた:
「あなた方の多くは、もはやこの修道生活、この共同生活を望んでいない。何故このことを私たちに隠蔽するのか? . . . 従順の生活に反対し、世俗に関する用心深さの生活に反対し、この世の所有物や慰めからの真の離脱の生活に反対し、私たちに苦行を与え愛徳の実践を義務づけ祈りと黙想との生活に駆り立てる共同体生活の現実に反対し、彼らの個人主義、利己主義、そして自由と独立への渇きは、より大きくなってしまった。」「彼らの個人主義は、寄生虫のように生きることしか出来ない。」

 総会のメンバーたちに、彼らの決意を導き出したインスピレーションを尊者リベルマンの著書に見出るようにと訴えながら、大司教は聖霊修道会士たちの正確な身分に関するこの創立者の見事な一ページを抜粋引用した。

「宣教師になるために故国を離れたかわいそうな子供達は、この観念をいつも念頭に置いている。私は何よりもまず宣教師である! したがって、それを悟るらない限りは、彼らは修道生活に如何なる重要性も見出さず、私が思うに、外的な活動にあまりにも熱心に身を委ねてしまっている。 . . . 実際に、宣教は目的ではあるが、修道生活は、必要不可欠な手段なのである。 . . . もし、彼らが聖なる修道士であれば、霊魂たちを救うだろう。もしそうでなければ、彼らは何もしないだろう。なぜなら、天主の祝福は彼らの聖性に付着しているからである。」

 10月4日にようやく大司教は修道会聖省の新しい事務長、モンスィニョ-ル・アントニオ・マウロ(Antonio Mauro)と会見した。アントニウッティ枢機卿は南アメリカへ行って不在だった。ルフェーブル大司教は後にこう言うだろう。
「もしも、この枢機卿と面会していたとしたら、事は違う方向に進行していただろう。しかし(そこには御摂理が働いていた)私の対話の相手は、三ヵ月後には能力が無く無知であると判断されて解雇されるこの事務長であった。」

 ルフェーブル大司教は彼に言った。
「総会では革命がありました。私は脇に追いやられ、たった一つの委員会であってもその委員ではありませんでした。しかし総会にいた他のメンバーたちはそうでした。私は単なる傍観者でした。私、総長が!」
モンシニョール・マウロは応じた。「いいですか、公会議の後なのです。理解しなければなりません。 . . . 貴方にあるアドヴァイスをあげようと思います。同じ案件で私に会いに来たもう一人の総長にもちょうどそれを差し上げたところです。」
「どうぞ」と私は彼に言いました。
「アメリカ合衆国にちょっと旅をしたらいいですよ。あなたも気分が優れますよ。」総会については、そして残務整理については補佐たちにその処理を任せなさい、と。

 しかしながらルフェーブル大司教の補佐役たちは、大司教が残務整理に留まるように要求した。彼はその通りにした、こう考えながら。
「総会のメンバーたちは私のところに来て相談することが出来るし、よき関係は残る。たとえこの状況が完全に異常であっても。」

 10月13日、彼は、修道会の目的と本質、修道共同生活、使徒的熱意、修道士たちが顧問の責務を引き受けることが出来るようにすること、などに関する提案に14ページを捧げ、それを総会に提案した。この提案の中でも、2つのプロジェクトは、補佐役たちの新たな役割と、「尊者リベルマンによって創立されたこの修道会を忠実に保ちながら」それと同時に、クロード・プラールの事業の復興に関する“まったく新しい”計画だった。彼の提案の何一つ、あるいは殆ど何一つ理解されなかった。

 10月28日、総長には、ジョゼフ・レキュイエ(Lecuyer)神父が選出された。今や、自らの責務から解かれたルフェーブル大司教は、同日、アガジアニアン(Agagianian)枢機卿にその総会を提出するために現れた。側近の同僚の一人に自分の後継者について大司教はこう打ち明けた。「最悪は免れた 」と。ついに11月11日、彼は、教皇がこの総会に賜った謁見に出席した。

 これらの散発的な機会を除いて、大司教はこの総会が自らの業務を“完璧な自由のうちに”進行するままにさせておいた。1970年に出版された“指令”と“決議”は、この総会によってもたらされた破壊的革命を明示した。

● 権威:共通善への心遣いは、パーソナリティと個人の自由の尊重によって取り替えられた。
● 従順:従順は共同責任となり、対話、天主の聖旨の共同追及、意志決定への参加、チームとして働く、さらにグループ力学になる。
● 修道者養成:修練期間に取って代わる霊的養成の様々な段階によって提供される。 “再養成”課程、さらに“福音的生活の見直し。”
● 宣教:キリストの奉仕者と、公会議に続いて“カトリック教会が尊敬をもって考える”諸宗教を信じる人々との間で“救いの対話”として、エキュメニカル的に宣教は見直され、修正がなされる。


========================

BLOG RANKINGです。クリックで応援して下さい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい


二つともクリックで応援して下さるとうれしく思います。
兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します!
========================


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】