VI. 特別総会―辞任
公会議革命のミニチュア版
1967年になるやいなや、ルフェーブル大司教には、“自分のことをもはや聞く耳を持たず、実際上自分をもはや欲しない聖霊修道会の指導を継続する事は不可能である”と悟った。
彼は友人のシガウド(Sigaud)司教に総長職を辞任するつもりであることを伝えた。しかしながら、修道会の改革に向けたこの特別総会の準備は、修道会聖省から与えられた認可と、公会議教書「修道生活の刷新・適応に関する教令」(ペルフェクテ・カリターティス)の実行のためにパウロ六世が1966年8月6日に発行した規範に従って、ルフェーブル大司教により任命された総会準備委員会の内部で続けられた。
総長はこの委員会に、修道会の諸地域から様々な提案を集約するために全くの自由を与えた。同様に、中央準備委員会は、これらの集められた提案に関する全般的な総合をする作業に妨げられることはなかった。この作業の結果は、修道会とは関係のない独立した専門家によって詳しく調べられた。彼は賞賛する:
「この総会は私が調査してきた他の総会の中で、最高に良く準備されている。」
この刷新の根本原理に関して、ルフェーブル大司教様はこう言うだろう。
「その展開を考慮にいれながら、しかし、私たちの修道生活の根本的な諸原則を簡潔に再確認しながら、私はこの修道会の徹底的な刷新を準備した。」
1968年5月のこの総会を前に、ルフェーブル大司教と、任期が1974年まで継続する事になっている彼の総顧問とは、
“重大な総会の期間中に、健全で真の刷新のことについて、個人的問題が入り込む余地を阻止することを望み”、総会初日に総員辞表を提出する旨決定した。
しかしながら、彼らの総辞職は、総会がもう一つ別の指導層を選出して初めて効果を持つこととなることは共通理解のことであった。その時まで、総長は修道会会憲に従い、総会の議長を務めることになっていた。
1967年の復活の月曜日(3月27日)に、大司教はサン・ジョヴァンニ・ロトンドにパドレ・ピオを訪ね、総会の為に祈ってくれるように依頼した。彼は悪いときに到着した。というのもカプチン会の総長が、カプチン会の総会の為に同じ依頼をする目的で来ていたのである。
「新しい会憲を作成するために開かれるカプチン会総会のためにお祈りください。」
この言葉に対し、パドレ・ピオは憤慨し叫んで言った。
「それはまったく役に立たないおしゃべりで、破壊行為です!」
17週間後、パウロ六世がカプチン会総会で引見することになっていた時、パドレ・ピオは1968年9月12日に教皇パウロ六世宛の手紙を書いた。
「私はこの会[カプチン会修道会]が、熱心な修道的厳格さや、福音的清貧、さらに会則と会憲の遵守というカプチン会の聖伝(tradition)を、それがもつ生命力と内的精神を刷新しながら、第二バチカン公会議の指令に従い、継続するように私たちの聖主に祈ります。」
新しい会憲が発表されたとき、パドレ・ピオは前にも似て鋭い反応を示したと言われる。
「あなた方はローマで何をしようとしているのか?何を計画しているのか?聖フランシスコの会則を変えようと望んでいるのか!」
しかしながら、バルバラ(Barbara)神父と別の司祭に伴われたルフェーブル大司教と、2名のカプチン会士に付き添われたパドレ・ピオとの会話は、簡単で短かった。聖痕を持つこの司祭は、聖霊修道会総会の為に祈る事を約束した。大司教は尊敬の念に動かされ、彼に祝福をお願いした。パドレ・ピオは答えた。
「とんでもない、大司教閣下、あなたこそ私を祝福する方です!」
こうしてルフェーブル大司教は、パドレ・ピオの上に天からの祝福を哀願した。
総会は1968年9月8日、ローマのドムス・マリエ(Domus Mariae:マリアの家)で始まった。総長は、作成した一般報告の中で、完遂された事業と直面した困難に言及し、さらにまた、幾つかの刷新を提案した。つまり補佐たちと総顧問たちに新たな役目とより大きな責任を与える事、主要な地域の再編成、さらに、プラール・デ・プラースの事業の精神に従って、修道誓願の時期を延期させ、三つの修道誓願を立てて修道者となることを望まないが宣教師になることを志願する若者たちの受け入ること、などに関する提案であった。最終的に彼は、既に公表していた総顧問団の辞表を提出した。
彼は総会のメンバーたちに、新たな総顧問団を、1962年にすでに決定していたように総会の終わりに選出するのか、或いは、以前に行われたように総会の初めから選出するのか、または、“誰かによって提案された第三の解決策”を取り入れて、総会の会議が“総会の議長職を保ちながらも、総長以外の誰かによって誘導される”ために、一人ないしは数名のモデラトール(議長)たちを指名するのか、を決議させた。
ルフェーブル大司教はこの第三の解決策の却下を試み、この第三の場合、総長と補佐、そして総顧問団の職は空位となること、従って聖霊修道会は指導者たる頭を持たなくなることをつけ加えて言った。
ルフェーブル大司教は極めてよく知っていた。総会メンバーたちの中の進歩派が、特にルフェーブル大司教が総会の指導権を完全に保有し、彼らが望んでいる刷新の実現を妨げることを恐れている事を。如才ない指導者として、大司教は彼らの提案を公表し、それがもたらす大きな不利、つまり、聖霊修道会の最も重要な集会において、総長を脇に除外してしまうという不利を示そうと努力した。この提案は、総会のレベルにおいて、教皇によって指名された公会議の議長に代って、選出された議長たちが登場する第二バチカン公会議の政変の繰り返しとなってしまうだろう。
進歩的な司祭たちによる計画との一致のうちに、この総会は新しい総顧問団の選出を延期したのであるが、しかしながら、会議の議長を務め、総会委員会のメンバーたちを選べる総長の権限に関する会憲91条の効力を一時停止にするようにとさっそく票を投じた。 回答されるべき問いがある。つまり会憲により総会の議長を務める権利をもつ総長は、さらに、総顧問団により定められた会則に従って、中央委員会の議長をも務める資格があるのか?」
まもなく大司教の敵たちは議論を作り上げた。
「立法権である総会は、総長によって代表される行政権の権威の下に置かれえない。中央委員会のメンバーたちは、一人残らず選出されなければならないはずである。」
このもっともらしい主張に反論して、ミシェル・オカロル(Michael O’Carrol)神父は尋ねた。
「もし、私たちが真っ先に行う事が、自分たちの総長をその地位から引きずりおろすことであると知ったならば、修道会地域と宣教地区にいるメンバーたちは私たちの事をどう思うだろうか?」
ルフェーブル大司教は中央委員会のメンバーの選挙に反対の立場を取り、こう締めくくった。
「各自、自分の意見を表明し、自分の良心に従って投票することは自由です。私は、この投票の結果によって示される決定に委ねます。」
この投票が即時に行われていたならば、おそらく大司教支持の結果に終わっていただろう。しかしながら、疑いなく御摂理的な、ある知られざる理由により、刷新派たちに秘密の会合を開き、総会に圧力をかけるための一夜を残して、彼は翌日までこの投票を延期したのである。大司教は9月11日に、63票対40票という結果で敗れ、“理論上の肩書だけの議長”という容認できない役割に引き下ろされた。冷静さを保ちながら、彼はただこう言った。
「総長が置かれた状況は、間違いなく、公教会の精神に反しており、教会法の精神に反対し、さらに私たちの伝統と会憲に矛盾している。」
彼は翌朝の総会の議長を務めたが、約束通り、正午に総会を退席した。第一補佐のハック(Hack)神父に、会議では自分の代理を務めるように頼み、ルフェーブル大司教は“後任が来るまでの日常業務を行う”だけに身を委ねて、修道会本部に帰った。この総会は、ほんのしばらく驚いたが、その後3名の議長が選出され、不合理な提案と数え切れない事務書類で息詰まらせる彼らのやり方で継続された。この総会は、1968年ローマでの2ヶ月と、1969年シュヴィリにおける2ヶ月で、4ヶ月間続いた。
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第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出
II. 掃除と改革
III. より優れた組織編成
IV. 修道生活と使徒職
V. 真のアッジョナルナメントに向けて