新しいミサ通常文の批判的小研究
1969年11月末に予定されていた新しいミサ通常文の導入をパウロ六世が延期し、それを見直させるために、パウロ六世に提出された陳情書のアイデアを利用して、ウナ・ヴォーチェ国際連盟の創立を考え出したヴィットリア・ゲッリーニ(Vittoria Guerrini)は、自分のことをよく知っているルフェーブル大司教に会った。
彼女は、文芸界ではクリスティーナ・カンポ(Christina Campo)というペンネームでよく知られていた。そんな彼女がもう一人のローマ貴婦人である友人、エミリア・ぺディコーニ(Emilia Pediconi)を連れて大司教に会いにやって来たのだ。オッタヴィアーニ枢機卿のところに自由に出入りすることが出来た彼女たちは、枢機卿とルフェーブル大司教との間の仲介者の役目を果たすことも出来た。文書を作成し、それをオッタヴィアーニ枢機卿に提出し、枢機卿はそれにまず目を通した後、教皇に提出する事になっていた。
ヴィットリア・ゲッリーニは、第二バチカン公会議の元顧問で教育聖省 の官僚であるモンシニョール・レナート・ポッズィ(Msgr. Renato Pozzi)や、やはり同聖省所属のモンシニョール・ゲッリーノ・ミラーニ(Msgr. Guerrino Milani)、さらに典礼学者と謳われ幾つか戦闘的な論説を書いたことのあるモンシニョール・ドメニコ・チェラダ(Msgr. Domenico Celada)を含めた5、6名の聖職者たちを集めるのに成功した。ルフェーブル大司教はさらに、ラ・パンセ・カトリック(La Pansée Catholique)誌 に寄稿している聖ドミニコ会士ゲラール・デ・ロリエ(Guérard des Lauriers)神父に出席を依頼した。
ルフェーブル大司教は司教として、第一回目の会合と、1969年の5月と6月の間、ローマにおけるウナ・ヴォーチェ国際連盟の事務所で“過酷なリズム”を奏でた夜間の会合の幾つかの議長を務めた。ゲラール・デ・ロリエ神父がまず草案を書き、これは会合で討論に付され、議論されるに従って徐々にデ・ロリエ神父が口述し、それが書き取られ、ヴィットリア・ゲッリーニによってただちにイタリア語に翻訳されていた。特に彼女は、この文書に含まれる特に典礼に関する事項を自ら補足し、詳細に分かりやすくした。かつて修めたことのない神学を、このローマ貴婦人たちは、その高貴な「血の中に所蔵していた」のである。
イタリア語の文書は、オッタヴィアーニ、バッチ(Bacci)の両枢機卿のもとに届けられた。ルフェーブル大司教は他の友人の枢機卿たちに支援を求めて面会に行ったが、ルフェーブル大司教を歓迎した枢機卿たちはこの文書を読むと、それに署名することを恐れた。大司教は大勢の司教たちからの署名獲得も期待していた。その内60名はイタリア人司教であった。
その合間に、彼はこの文書をフランス語(ジェラール神父訳)と、ドイツ語(エリザベト・ゲルストゥナー:Elizabeth Gerstner訳)、スペイン語(ドン・ルイジ・セヴェリーニ:Don. Luigi Severini訳)と、さらには英語(アンダーソン教授訳)に翻訳させた。加えて、同文書を、それが教皇に送付された後の日付で、フォルテス・イン・フィデ誌に好意的な異なる雑誌や様々な団体を介して公表させるよう手はずを整えた。
しかしながら、時は経過していた。オッタヴィアーニ枢機卿はこの文書を数ヶ月間「眠らせて」いたのである。確かに彼は、教皇聖下への提出前に、自分がその内容を精査すべきだと考えてはいた。さらに、彼は二年前、三つの新しいアナフォラに対し認可(Nihil obstat)を与えていた手前、ばつが悪く思っていたことだったろう。
ペンと紙を手に、モンシニョール・ポッズィがオッタヴィアーニ枢機卿に話しにやって来た。オッタヴィアーニ枢機卿は目がほとんど見えなかった。枢機卿は多くの点について意見を述べ、特にこう言った。
「新しいミサがトリエント(公会議)に反していると主張するのは、すこし言い過ぎであるが、しかし、それが何であれ不快なものであることは事実だ。」
最終的に、9月13日、かなりの力説を終え、オッタヴィアー二枢機卿は、批判的小研究 を承認し、パウロ六世への請願の手紙に署名した。バッチ枢機卿も9月28日に署名した。しかし他の署名獲得は空しく終わった。誰も協力をしてくれなかった。期待していたカルリ(Carli)司教でさえ。その間に、ド・ナント(De Nantes)神父は、10月15日、あの両枢機卿からの手紙を、自ら出版する会報『カトリック反宗教改革(Contre-Réforme Catholique)』誌に早まって - オッタヴィアーニの署名だけで‐掲載してしまったのである。それ以降は如何なる遅れも許されなかった。こうして聖ピオ十世の祝日、9月3日付の陳情書が、10月21日、あの批判的小研究 と併せてパウロ六世に提出された。
【Michael Davies, Pope Paul’s New Mass, The Liturgical Revolution, vol. III, 3rd edition, 1992, pp. 493-493. 但し、幾つかの事実と日付は訂正した。アントニオ・バッチ枢機卿は優れたラテン語学者でラテン語典礼の保全のために闘った。バッチ枢機卿は
Tito Casini 著の『引き裂かれたトゥニカ』 に序言を書いた。この序言は、
http://www.latunicastracciata.net/tunica_stracciata/01_TS.htm で読める。パウロ六世はこの本に対して怒り狂った。】
【参考資料】
この批判的小研究は、次で読める。
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html
オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿のパウロ六世への手紙は次で読める。
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html
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