Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

われは聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ給うた主イエズス・キリストを信じ奉る

2009年12月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 待降節に入りました。しかし例のスペイン人司祭はまた自分のブログで異端をしつこく述べ続けています。

 彼の「手作りの考え方」によると、「マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です」となっています。

 しかしこれはウソです。

 何故なら、四聖福音書は歴史的事実が書かれている歴史書であるからです。

 何故なら、マテオの聖福音書については、すでに近代主義の誤謬に対して、1911年に聖書委員会が次のように解答しているからです。

【質問6】:第1の福音書の著者の目的は、ユダヤ人たちにイエズスが預言者たちによって予告され、ダビドの家系から生れたメシアであることを証明するための特に教理的で護教的な目的であった、そしてまた、叙述し言及する事実と言われたことの配列においては、常に年代順になっているわけではなく、従って、この福音書を真実のものとして受入れるべきではないと結論される。これについては?
 或いは、この福音書において読まれるキリストの行ったこと、話したことの記録は、旧約聖書の予言と発展した教会の現状による影響を受けて、ある程度変更されたり改作されたりし、そしてそのために歴史的真実とかけはなれている、これはどうなのか?

【解答】二つの部分とも否定する。

【質問7】:キリストの系図と幼少時代を書き記しているはじめの2章の歴史的真実性(historica authenticitas)を疑い、教義上重要な箇所、たとえばペトロの首位権に関するところ(16:17-19)、使徒たちに与えられた洗礼の形式と全世界に福音を伝える使命についてのところ(28:19, 20)、使徒たちがキリストの天主性を信仰宣言するところ(14:33)、その他のマテオだけにある特別の箇所の歴史的真実性を疑う者の意見を、特にしっかりとした根拠に欠くものであると考えるべきか。

【解答】肯定する。


 また、ルカの聖福音書については、すでに近代主義の誤謬に対して、1912年に聖書委員会が次のように解答しているからです。

【質問9】:マルコがペトロの説教に従って、正確にそしてほとんど絵に描くように書き、ルカが「はじめからの目撃者で、みことばの奉仕者となった」十分に信頼できる証人を通して「すべてのことをはじめから詳しく調べた」(ルカ1:2以下)上で、きわめて誠実に表現した、(私たちの主の)言葉や行いは、教会がそれらの福音書に常に与えている歴史的信憑性を充分に持っていると言えるか。
 反対に、同じ(私たちの主の)言葉や行いは、少なくとも一部分は歴史的真実性がないと考えなければならないか。
それは、或いは、著者が目撃者でもなことから、
或いは、2人の福音記者に事件の経緯の順序がないことや相違があるのはほとんどまれではないことから、
或いは彼らは年月が経ってからやって来て書いたため、キリストや使徒たちの考えと違う概念やすでに民衆の想像によって多少ゆがめられたことを書いたのは当然でことから、
或いは、最後に、前もって持っていた教義的概念によって、それぞれ自分の目的に合わせて書いたことから、である。

【解答】第1部については肯定する、第2部については否定する。

 
 彼の「手作りの考え方」は明らかに異端です。

 何故なら、彼はこう言って言うからです。「この話しをきれいごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。・・・ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかといわれていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。」

 何故なら、聖母マリア様については、天主の聖母、終生童貞であることがカトリックの信仰であるからです。

 何故なら、イザヤの預言にあるとおり「童貞女が身ごもって子供を産む」これが本当のメシアのしるしとして与えられたからです。もしも、聖母マリアが童貞ではなく、性的虐待の被害者であったとしたら(主よ!このようなことを言う我らを憐れみ給え!)、もはやイエズス・キリストはメシアではなくなるからです。


 聖ピオ十世は、近代主義を排斥する「パッシェンディ」の中で次のように近代主義を描写しています。 まさにこの描写は、この「手作りの考え方」そのままです。

=========引用開始==========


聖書

22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。

 しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在と生命的永在によってのみ、そうされるのです。

 それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する ───例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める─── 近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として ───もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが─── 見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです。・・・

カトリックの教えと矛盾する近代主義

真理の単純さ

 尊敬する兄弟たちよ、一つの、ただ一つの真理のみ存在すると信じ、また聖書が「聖霊の霊感を受けて書かれ、天主をその著者とする」と信じる私たちは、このような教説は天主ご自身が便宜上の嘘をつかれた、と言うことに等しいと断言します。そして、聖アウグスチヌスと共に、こう述べるのです。「かくも崇高な権威において、ただ一つでも便宜上の嘘[の存在]を認めるならば、一見実践あるいは信じることが困難に見える命題の中で、その同じこの上なく有害な原則に基づいて、その書の著者が故意に、ある目的のためについた嘘であると説明しおおせない、ただ一つの文もなくなるでしょう。」そして、このようにして、この聖なる博士が続けて述べているような事態が生じるのです。つまり、「誰もが自分の好む、好まないに応じて、これらの文章───すなわち聖典───に記されていることを信じ、あるいは信じるのを拒むようになる」のです。しかし、近代主義者たちは自分たちの定めた方向に邁進してゆきます。彼らはまた「ある特定の教理の証明として持ち出されるある種の議論、例えば預言に基づいた議論は、何らの理知的根拠も有していない」と認めます。しかるに、彼らはこれらさえ宣教のための術策であり、生命[の必要]によって正当化され得るものだとして擁護するのです。それのみならず、彼らは「キリストご自身さえもが天主の御国の到来の時期について明らかな間違いをおかされた」ということを認める、否、声を大にして主張するのです。そして彼らの言うには、これについて驚くにはあたりません。なぜなら、[彼らによれば]「キリストご自身も生命の法則に服されていた」のですから!こうなれば、教会の諸々の教義は一体どうなってしまうでしょうか。近代主義者たちに言わせれば、「これらの教義は甚だしい矛盾に満ちています。しかし、それに何の問題があるでしょうか。なぜなら、生命の論理がそれらを認め、受け容れているという事実はさておき、それらの教義は象徴的真理にそぐわぬものではないからです。問題となっているのは無限なるものであり、しかるに無限なるものは無限に多様な側面をもっているのではないでしょうか。」つまるところ、こうした諸説を主張し、弁護するために、彼らは、「無限なるものに対して捧げることのできる最も気高い礼賛は、互いに相矛盾する命題をこの存在に帰することである」、と憚(はばか)ることなく宣言するのです。しかし、もし彼らが矛盾さえも正当化するのなら、彼らが正当化するのを拒むようなものが、一体何かあるでしょうか。

主観的議論

 37.しかるに、[近代主義に従えば]不信仰者をして信仰を受け入れるよう導くのは、客観的議論によってだけではありません。主観的な議論もまた存在するのであり、このために近代主義の護教論者は内在という教説にその根拠を求めます。彼らは事実、自分たちが関わる当の不信仰者が、自らの本性ならびに生命の奥深いところに、何かある宗教、それもただどんな宗教でもよいのではなく、カトリック教の名で知られている特定の宗教に対する必要および欲求が隠れていることを納得させようと努めます。「この宗教こそが生命の完全な発達のために絶対必要なものとして要請される宗教だから」です。ここでもまた私は、内在を教説としては否定しながら、それを護教論の手法として用いるカトリック者がいることに不服の念を表わす充分な理由をもっています。実際、こうした人々はあまりに賢明さを欠いた仕方でそうするので、カトリックの護教家たちによって常に、しかるべき限度をまもって強調されてきたように、人間には超自然的事柄に対する受容能力ならびに適合性がある、と認めるに止まらず、「人間本性には超自然的次元に対する真の、厳密な意味での必要がある」と認めさえするように見受けられるほどです。実のところ、カトリック宗教に対するこのような[人間本性の根元からの]切迫した必要という論拠を用いるのは、まだ穏健な方の近代主義者たちです。その他の徹頭徹尾のとでもいうべき近代主義者は、不信仰者に、彼の存在の内に、キリストご自身がその意識の中に持っておられ、人類に伝達されたのとまさに同一の芽生えが潜んでいる、ということを示そうとします。尊敬する兄弟たちよ、以上が近代主義たちの用いる、彼らの教説と完全に調和した護教論の手法の概略的な説明です。こういった誤謬にあふれた手法ならびに教説は、建設のためではなく破壊のためのもの、また、カトリック信者をつくるためではなく、すでにカトリック信者である人を異端へと誘い入れるためのものであり、宗教全体の完全な転覆へと導く種類のものです。


近代主義の中に居を構える傲慢

  しかるに、霊魂の上に[好奇心よりも]比較にならないほど大きな影響力を及ぼしてそれを盲目にし、誤謬へと導くのは傲慢です。そして傲慢は近代主義の中に、それが自分の住居であるかのようにあぐらをかきます。傲慢は、近代主義の教えのいたるところに自らを養うものを見出し、そのあらゆる側面に潜みます。実際、近代主義者をして、自分たちが万事の基準[を定める者]であると見なし、かつそのように振る舞うほどに自信で満たすのは、この傲慢です。彼らを虚しい傲りで満たし、知識の唯一の保持者を自認させるのも、また、得心し、僭越心にふくれ上がって「我々は他の者たちとは違う」と言わせるのも、さらに、自分たちが他の人々と同じように見えることのないよう、最も愚昧な新説さえをも採り入れ、また自ら考案するよう導くのも傲慢です。さらに、彼らの心中に不従順の精神をかき立て、権威と自由との間に歩み寄りを要求させるのもまた傲慢です。傲慢のゆえにこそ、彼らは自らを改めることを忘れて他の者たちを矯め直す者となることを欲し、また、権威に対する敬意に、───最高の権威に対してさえも─── 甚だしく欠くようになるのです。まことに傲慢ほど近代主義へと直接に、また速やかに導くものはありません。もしカトリックの一般信徒もしくは司祭が、キリストに従うために己れを捨てるよう強いるキリスト教生活の戒律を忘れてしまい、傲慢を自らの心から引きはがすのを怠るならば、彼は他の誰にもまして近代主義の誤謬の格好の標的となります。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、このように傲慢の餌食となった者たちに対抗し、彼らを最も低い、目立たない役職にのみ用いることがあなた方の第一の義務となります。彼らが高い所に上ろうとすればするほど、それだけいっそう彼らを低い位置に置かなければなりません。それは彼らの地位の低さのゆえに、彼らの及ぼす害悪が制限されるためです。あなた方のもとにある若い聖職者らをあなた方自身で、また神学校の校長を通し、きわめて入念に審査しなさい。もし傲慢の精神を彼らの中に見出したならば、呵責なく彼らに司祭職の道を閉ざしなさい。倦むことのない用心深い警戒によって、今日に至るまでずっとこのことが為されていたならば、どれほどよかったでしょう。

近代主義者たちの無知

 41.近代主義の道徳的原因から知的原因へと視点を移すならば、第一の主要な原因として、無知が見出されます。そうです、教会の教師として目されることを望む近代主義者たち、現代哲学をかくも称揚し、スコラ哲学に対してあれほどの軽蔑を表す当の彼らが前者をその全ての偽りの魅力と共に受け容れたのは、まさに後者についての無知のために、彼らは思考の混乱を識別し、詭弁的論法を論駁する能力を持ち合わせていなかったからです。実に、かくも多くの、かくも甚だしい誤謬を含んだ彼らの体系全体は、信仰と誤った哲学との結合から生まれたものです。

=========引用終了==========


主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【関連記事】


初土の信心をして罪の償いを果たすことであたえられる3つの恵み

2009年12月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

初土の信心によって受ける恵み

 愛する兄弟姉妹の皆様、今日は初土曜ですから、初土の信心について黙想することを提案します。

 初土の信心をして罪の償いを果たすことで3つの聖寵が与えられます。

1 自分のため
救霊


 1925年12月10日、ルチアはスペインのポンテベドラでドロテア修道女会の志願者でした。聖母マリアは修室にいたシスター・ルチアに現れ、そのそばには幼きイエズスがおられました。聖母マリアは一方の手をルチアの肩に置き、同時に別の手で茨に囲まれたご自分の御心を持ってルチア示しました。

幼子イエズスは言われます。
「あなたのいと聖なる御母の御心に同情しなさい。それは忘恩の人々がいつも突き刺す棘で覆われています。それらの棘を取り除くために誰一人として償いの業をするひとはいません。」

"Tem pena do Coração de tua Mãe Santíssima, que está coberto de espinhos que os Homens ingratos a todos os momentos Lhe cravam, sem haver quem faça um acto de reparação para os tirar."

聖母マリアは言います。
「私の娘よ、棘で取り巻かれている私の御心を見なさい。その棘は恩知らずの人々は冒涜と忘恩によって絶えず私の御心を突き刺しています。少なくともあなたは、私を慰めるよう努めてください。そしてこう伝えなさい。償いの精神で、(連続して)5ヶ月の間、初土曜日に告解をし、御聖体を受け、ロザリオ5連を唱え、ロザリオの15の玄義を黙想しながら 15分間私と共にいるすべての人々に、私はその人々の救いのために必要なすべての恵みをもって臨終のときに助けることを約束します。」

"Olha, Minha filha, o Meu Coração cercado de espinhos que os Homens ingratos a todos os momentos Me cravam com blasfémias e ingratidões. Tu, ao menos, vê de Me consolar e diz que, todos aqueles que durante cinco meses (seguidos) no Primeiro Sábado, se confessarem, recebendo a Sagrada Comunhão, rezarem um Terço e Me fizerem 15 minutos de companhia, meditando nos 15 Mistérios do Rosário com o fim de Me desagravar, Eu prometo assistir-lhes à hora da morte com todas as graças necessárias para a salvação dessas almas."

 この信心によって、聖母マリアは最後まで堅忍する恵みと永遠の救いの聖寵を約束して下さっています。これは、聖母マリアが御子イエズス・キリストを通して至聖三位一体から得て下さる偉大な憐れみの恵みです。私たちにとって永遠の救いこそ重大なものはありません。

 この信心を、熱心と謙遜と単純と信頼と忠孝の愛とをもって実践しなければなりません。救われるのだから、といって罪を犯し続けていてはなりません。罪によって茨を突き刺され苦しめられている聖母マリアに同情し、聖母の汚れなき御心を慰めるように、償いをするように熱烈なる愛を持たなければなりません。

天国での栄光


 1917年6月13日、聖母マリアはこう言われました。
「イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します。これらの人々の霊魂は天主の玉座を飾るために私によっておかれた花のように、天主にとって愛おしい者となるでしょう。」

"Ele quer estabelecer no mundo a devoção ao Meu Imaculado Coração. A quem a abraçar, prometo a salvação; e serão queridas de Deus estas almas, como flores postas por Mim a adornar o Seu Trono."

 聖母の汚れなき御心によって天主の玉座におかれた花となる、何というすばらしい約束でしょうか!

2 隣人たちのため
私たちの隣人にとっての恵み


 この信心は、罪人たちの回心のために極めて有益です。シスター・ルチアは、この初土の信心を生涯繰り返し実践していました。5ヶ月間続けて初土の信心をし終わると、もう一度別の5ヶ月間の信心を始めていました。

 聖母の汚れなき御心は、この信心を全てのカトリック信者たちにお求めです。多くの霊魂の救いは、この信心にかかっているとさえ言われました。

 シスター・ルチアは、1943年5月27日にグルサの司教にこう書いています。
「イエズスとマリアの聖心はこの崇敬(culto)を望み愛しておられます。何故なら二つの聖心はこの崇敬を自分たちへと霊魂を引き寄せるために使うからです。御心の全ての望みは正にこれです。霊魂を救うこと、多くの霊魂、全ての霊魂を救うこと。私たちの主は数日前に私にこう仰いました。『私は聖母の汚れなき御心への崇敬(culto)と信心(devoção)とが広がるのを極めて熱烈に望んでいる。何故ならこの汚れなき御心は霊魂たちを私に引き寄せる愛する心であり、私の光と私の愛の光線を地上に照らし出すかまど(fornalha)、私の憐れみの活ける見ずを地上に湧き上がらせる決してつきることのない泉(fonte)であるからだ。」

"Os Santíssimos corações de Jesus e Maria amam e desejam este culto [para com o Coração de Maria] porque dele se servem para atrair todas as almas a eles e isto é tudo o que desejam: salvar as almas, muitas almas, todas as almas”. Nosso Senhor me dizia, há alguns dias: “Desejo ardentemente a propagação do culto e da devoção ao Coração de Maria porque este Coração é o ímã que atrai as almas para mim, a fornalha que irradia na terra os raios de minha luz e de meu amor, fonte inesgotável de onde brota na terra a água viva de minha misericórdia".

 この信心は、隣人、友人など他人のためにもかつて聞いたこともなかったほどの力を持っています。他人のために私たちが代理でこの信心を行うなら、私たちはこの霊魂が救われるだろうという「堅い希望」を持つことが出来ると言われています。(Frère Michel de la Sainte Trinité)

 初土の信心は、初金の信心と密接な関係にあるので、聖マルガリタ・マリア・アラコックに言われた言葉を引用します。

「この手段によって、滅びの道から多くを引き離し、霊魂たちの中でイエズスの愛の帝国を築くために、サタンの帝国を滅ぼし、命を再び与える」

« redonner par ce moyen la vie à plusieurs en les retirant du chemin de perdition, en ruinant l'empire de Satan dans les âmes, pour y établir celui de son amour. »

3 謙遜のための恵み
聖母の汚れなき御心の凱旋


1917年7月13日、ファティマの聖母マリアは言われました。
「あなたがたはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。私があなたがたに言うことがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇への迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。

"Se fizerem o que Eu vos disser, salvar-se-ão muitas almas e terão paz. A guerra vai acabar. Mas, se não deixarem de ofender a Deus, no reinado de Pio XI começará outra pior. Quando virdes uma noite alumiada por uma luz desconhecida, sabei que é o grande sinal que Deus vos dá de que vai punir o mundo de seus crimes por meio da guerra, da fome e de perseguições à Igreja e ao Santo Padre."

「このこと(戦争、飢饉、教会と教皇への迫害)を避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

"Para a impedir, virei pedir a Consagração da Rússia ao Meu Imaculado Coração, e a Comunhão Reparadora nos Primeiros Sábados. Se atenderem a Meus pedidos, a Rússia se converterá e terão paz; se não, espalhará seus erros pelo mundo promovendo guerras e perseguições à Igreja. Os bons serão martirizados; o Santo Padre terá muito que sofrer; várias nações serão aniquiladas."

「最後に、私の汚れなき御心は凱旋するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。」

"Por fim, o Meu Imaculado Coração triunfará. O Santo Padre consagrar-Me-á a Rússia que se converterá, e será concedido ao mundo algum tempo de paz."

結論

 聖母の汚れなき御心をお慰めし、罪を償わなければなりません。それは、聖母の汚れなき御心の凱旋のため、そして戦争を避け、迫害を避け、人類の滅亡を避けるためです。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、日本のために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、世界のために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
ファチマの真実(1)
ファチマの真実(2)

【関連記事】ファチマ


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 14.3.2.宣教地区の適切な再編成

2009年12月05日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. より優れた組織編成


宣教地区の適切な再編成

 また、私たちが見てきたように、この元教皇使節は、その前衛的見解により以前アフリカのプレフェクトゥーラ(Prefectures)や使徒座代理(Apostolic Vicariates)などがただ一つの修道会の運営にだけ委ねられているという制度を、本当の司教区が育つために、その中で複数の修道会が働き合いアフリカ出身の邦人聖職者たちが増加するために、ほとんどあっという間に、時代遅れなものに変えたが、ルフェーブル大司教が創設することに貢献した新しい状況に宣教地区は活動を始めた。

 既に話したあの「40人のグループ」が、理論や計画を思いついて足場を造りながら、不可能な事を試みたと信じるのは、間違いである。ルフェーブル大司教は彼らよりも一歩先にそれを考え、彼らがなくとも、現実的で、深く教義に基づいた自分の見解を実行する事を知っていた。

聖霊修道会の“宣教地区において、司教区が複数あるようになると、かつての聖霊修道会のセンターではもはやなくなる。

 総長は、聖霊司祭修道会の司祭たちが、定期的に会合する事が出来るよう、“聖霊司祭修道会の家”を創設することを許可するように司教たちに依頼した。また司教たちは聖霊司祭修道会との契約にサインした。それはルフェーブル大司教により考案され、ランベルトゥス・ヴォゲル(Lambertus Vogel)神父の助けを受けたもので、同契約は、聖霊司祭修道会司祭たちの活動の性質、適応場所、継続期間、さらには融資を明細にし、会員たちに対する“修道会長上”の修道的権威を承認するものだった。

 聖霊司祭修道会の目的により、最も困難な地域にある未開拓地の宣教使命に加えて、少なくとも一つの町中にある小教区教会を、やはり老齢化する宣教師たちのために、聖霊修道会に委託するよう彼は教区長たちに頼んでいる。

 しかしながら、カトリック人口の増加の傍ら、職員数の減少のために、ルフェーブル大司教が非常に強調した会員の共同生活を維持継続するために、司祭たちを再編成した。ある宣教根拠地は邦人聖職者の手に渡った。同様に、聖霊司祭修道会の修道士たちは有効的で移動可能なチームを結成した。

 最後に、同修道会は諸地域から十分な数の宣教師を招来することが出来ないので、当地の司教たちは、聖霊司祭修道会の司祭たちがまさにアフリカの地において修道者宣教師の募集をすることを容認しなければならない。ナイジェリアでは既に聖霊司祭修道会修練院と神学校が完全に作動していたし、そこから巣立った召命は司祭となるや出身国の外にまで宣教師として送られた。ルフェーブル大司教はこのような邦人募集が、邦人神学校の競争相手と考えるのは誤りであると判断した。

 ルフェーブル大司教は言う。
「それはむしろ、生命力があり物惜しみをしないキリスト教共同体の印なのである。」 

 大司教は、結論してこう言う。
「現実を見ましょう。現在の困難に直面して、‘上智と愛徳の霊’、そして‘教会の精神’を求めましょう。」

 大司教はヴォゲル神父に対し、宣教諸国内の各司教区に存在する宣教修道会が存在することは第一バチカン公会議による聖伝の信仰と、基礎のしっかりしている教義に適っていることを思い起こさせるように命じた。宣教修道会の現存が“外国人の進入”ではない。

 何故なら、“教皇によって司教区に派遣される、あるいは教皇の命により維持される、修道士や司祭たちは、その司教区にいる完全な権利を持っている。そこは何よりも司教の教区である前に、教皇様の教区だからである。」

これは強力で時を得た真理である!

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