アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
待降節に入りました。しかし例のスペイン人司祭はまた自分のブログで異端をしつこく述べ続けています。
彼の「手作りの考え方」によると、「マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です」となっています。
しかしこれはウソです。
何故なら、四聖福音書は歴史的事実が書かれている歴史書であるからです。
何故なら、マテオの聖福音書については、すでに近代主義の誤謬に対して、1911年に聖書委員会が次のように解答しているからです。
【質問6】:第1の福音書の著者の目的は、ユダヤ人たちにイエズスが預言者たちによって予告され、ダビドの家系から生れたメシアであることを証明するための特に教理的で護教的な目的であった、そしてまた、叙述し言及する事実と言われたことの配列においては、常に年代順になっているわけではなく、従って、この福音書を真実のものとして受入れるべきではないと結論される。これについては?
或いは、この福音書において読まれるキリストの行ったこと、話したことの記録は、旧約聖書の予言と発展した教会の現状による影響を受けて、ある程度変更されたり改作されたりし、そしてそのために歴史的真実とかけはなれている、これはどうなのか?
【解答】二つの部分とも否定する。
【質問7】:キリストの系図と幼少時代を書き記しているはじめの2章の歴史的真実性(historica authenticitas)を疑い、教義上重要な箇所、たとえばペトロの首位権に関するところ(16:17-19)、使徒たちに与えられた洗礼の形式と全世界に福音を伝える使命についてのところ(28:19, 20)、使徒たちがキリストの天主性を信仰宣言するところ(14:33)、その他のマテオだけにある特別の箇所の歴史的真実性を疑う者の意見を、特にしっかりとした根拠に欠くものであると考えるべきか。
【解答】肯定する。
また、ルカの聖福音書については、すでに近代主義の誤謬に対して、1912年に聖書委員会が次のように解答しているからです。
【質問9】:マルコがペトロの説教に従って、正確にそしてほとんど絵に描くように書き、ルカが「はじめからの目撃者で、みことばの奉仕者となった」十分に信頼できる証人を通して「すべてのことをはじめから詳しく調べた」(ルカ1:2以下)上で、きわめて誠実に表現した、(私たちの主の)言葉や行いは、教会がそれらの福音書に常に与えている歴史的信憑性を充分に持っていると言えるか。
反対に、同じ(私たちの主の)言葉や行いは、少なくとも一部分は歴史的真実性がないと考えなければならないか。
それは、或いは、著者が目撃者でもなことから、
或いは、2人の福音記者に事件の経緯の順序がないことや相違があるのはほとんどまれではないことから、
或いは彼らは年月が経ってからやって来て書いたため、キリストや使徒たちの考えと違う概念やすでに民衆の想像によって多少ゆがめられたことを書いたのは当然でことから、
或いは、最後に、前もって持っていた教義的概念によって、それぞれ自分の目的に合わせて書いたことから、である。
【解答】第1部については肯定する、第2部については否定する。
彼の「手作りの考え方」は明らかに異端です。
何故なら、彼はこう言って言うからです。「この話しをきれいごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。・・・ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかといわれていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。」
何故なら、聖母マリア様については、天主の聖母、終生童貞であることがカトリックの信仰であるからです。
何故なら、イザヤの預言にあるとおり「童貞女が身ごもって子供を産む」これが本当のメシアのしるしとして与えられたからです。もしも、聖母マリアが童貞ではなく、性的虐待の被害者であったとしたら(主よ!このようなことを言う我らを憐れみ給え!)、もはやイエズス・キリストはメシアではなくなるからです。
聖ピオ十世は、近代主義を排斥する「パッシェンディ」の中で次のように近代主義を描写しています。 まさにこの描写は、この「手作りの考え方」そのままです。
=========引用開始==========
聖書
22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。
しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在と生命的永在によってのみ、そうされるのです。
それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する ───例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める─── 近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として ───もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが─── 見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです。・・・
カトリックの教えと矛盾する近代主義
真理の単純さ
尊敬する兄弟たちよ、一つの、ただ一つの真理のみ存在すると信じ、また聖書が「聖霊の霊感を受けて書かれ、天主をその著者とする」と信じる私たちは、このような教説は天主ご自身が便宜上の嘘をつかれた、と言うことに等しいと断言します。そして、聖アウグスチヌスと共に、こう述べるのです。「かくも崇高な権威において、ただ一つでも便宜上の嘘[の存在]を認めるならば、一見実践あるいは信じることが困難に見える命題の中で、その同じこの上なく有害な原則に基づいて、その書の著者が故意に、ある目的のためについた嘘であると説明しおおせない、ただ一つの文もなくなるでしょう。」そして、このようにして、この聖なる博士が続けて述べているような事態が生じるのです。つまり、「誰もが自分の好む、好まないに応じて、これらの文章───すなわち聖典───に記されていることを信じ、あるいは信じるのを拒むようになる」のです。しかし、近代主義者たちは自分たちの定めた方向に邁進してゆきます。彼らはまた「ある特定の教理の証明として持ち出されるある種の議論、例えば預言に基づいた議論は、何らの理知的根拠も有していない」と認めます。しかるに、彼らはこれらさえ宣教のための術策であり、生命[の必要]によって正当化され得るものだとして擁護するのです。それのみならず、彼らは「キリストご自身さえもが天主の御国の到来の時期について明らかな間違いをおかされた」ということを認める、否、声を大にして主張するのです。そして彼らの言うには、これについて驚くにはあたりません。なぜなら、[彼らによれば]「キリストご自身も生命の法則に服されていた」のですから!こうなれば、教会の諸々の教義は一体どうなってしまうでしょうか。近代主義者たちに言わせれば、「これらの教義は甚だしい矛盾に満ちています。しかし、それに何の問題があるでしょうか。なぜなら、生命の論理がそれらを認め、受け容れているという事実はさておき、それらの教義は象徴的真理にそぐわぬものではないからです。問題となっているのは無限なるものであり、しかるに無限なるものは無限に多様な側面をもっているのではないでしょうか。」つまるところ、こうした諸説を主張し、弁護するために、彼らは、「無限なるものに対して捧げることのできる最も気高い礼賛は、互いに相矛盾する命題をこの存在に帰することである」、と憚(はばか)ることなく宣言するのです。しかし、もし彼らが矛盾さえも正当化するのなら、彼らが正当化するのを拒むようなものが、一体何かあるでしょうか。
主観的議論
37.しかるに、[近代主義に従えば]不信仰者をして信仰を受け入れるよう導くのは、客観的議論によってだけではありません。主観的な議論もまた存在するのであり、このために近代主義の護教論者は内在という教説にその根拠を求めます。彼らは事実、自分たちが関わる当の不信仰者が、自らの本性ならびに生命の奥深いところに、何かある宗教、それもただどんな宗教でもよいのではなく、カトリック教の名で知られている特定の宗教に対する必要および欲求が隠れていることを納得させようと努めます。「この宗教こそが生命の完全な発達のために絶対必要なものとして要請される宗教だから」です。ここでもまた私は、内在を教説としては否定しながら、それを護教論の手法として用いるカトリック者がいることに不服の念を表わす充分な理由をもっています。実際、こうした人々はあまりに賢明さを欠いた仕方でそうするので、カトリックの護教家たちによって常に、しかるべき限度をまもって強調されてきたように、人間には超自然的事柄に対する受容能力ならびに適合性がある、と認めるに止まらず、「人間本性には超自然的次元に対する真の、厳密な意味での必要がある」と認めさえするように見受けられるほどです。実のところ、カトリック宗教に対するこのような[人間本性の根元からの]切迫した必要という論拠を用いるのは、まだ穏健な方の近代主義者たちです。その他の徹頭徹尾のとでもいうべき近代主義者は、不信仰者に、彼の存在の内に、キリストご自身がその意識の中に持っておられ、人類に伝達されたのとまさに同一の芽生えが潜んでいる、ということを示そうとします。尊敬する兄弟たちよ、以上が近代主義たちの用いる、彼らの教説と完全に調和した護教論の手法の概略的な説明です。こういった誤謬にあふれた手法ならびに教説は、建設のためではなく破壊のためのもの、また、カトリック信者をつくるためではなく、すでにカトリック信者である人を異端へと誘い入れるためのものであり、宗教全体の完全な転覆へと導く種類のものです。
近代主義の中に居を構える傲慢
しかるに、霊魂の上に[好奇心よりも]比較にならないほど大きな影響力を及ぼしてそれを盲目にし、誤謬へと導くのは傲慢です。そして傲慢は近代主義の中に、それが自分の住居であるかのようにあぐらをかきます。傲慢は、近代主義の教えのいたるところに自らを養うものを見出し、そのあらゆる側面に潜みます。実際、近代主義者をして、自分たちが万事の基準[を定める者]であると見なし、かつそのように振る舞うほどに自信で満たすのは、この傲慢です。彼らを虚しい傲りで満たし、知識の唯一の保持者を自認させるのも、また、得心し、僭越心にふくれ上がって「我々は他の者たちとは違う」と言わせるのも、さらに、自分たちが他の人々と同じように見えることのないよう、最も愚昧な新説さえをも採り入れ、また自ら考案するよう導くのも傲慢です。さらに、彼らの心中に不従順の精神をかき立て、権威と自由との間に歩み寄りを要求させるのもまた傲慢です。傲慢のゆえにこそ、彼らは自らを改めることを忘れて他の者たちを矯め直す者となることを欲し、また、権威に対する敬意に、───最高の権威に対してさえも─── 甚だしく欠くようになるのです。まことに傲慢ほど近代主義へと直接に、また速やかに導くものはありません。もしカトリックの一般信徒もしくは司祭が、キリストに従うために己れを捨てるよう強いるキリスト教生活の戒律を忘れてしまい、傲慢を自らの心から引きはがすのを怠るならば、彼は他の誰にもまして近代主義の誤謬の格好の標的となります。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、このように傲慢の餌食となった者たちに対抗し、彼らを最も低い、目立たない役職にのみ用いることがあなた方の第一の義務となります。彼らが高い所に上ろうとすればするほど、それだけいっそう彼らを低い位置に置かなければなりません。それは彼らの地位の低さのゆえに、彼らの及ぼす害悪が制限されるためです。あなた方のもとにある若い聖職者らをあなた方自身で、また神学校の校長を通し、きわめて入念に審査しなさい。もし傲慢の精神を彼らの中に見出したならば、呵責なく彼らに司祭職の道を閉ざしなさい。倦むことのない用心深い警戒によって、今日に至るまでずっとこのことが為されていたならば、どれほどよかったでしょう。
近代主義者たちの無知
41.近代主義の道徳的原因から知的原因へと視点を移すならば、第一の主要な原因として、無知が見出されます。そうです、教会の教師として目されることを望む近代主義者たち、現代哲学をかくも称揚し、スコラ哲学に対してあれほどの軽蔑を表す当の彼らが前者をその全ての偽りの魅力と共に受け容れたのは、まさに後者についての無知のために、彼らは思考の混乱を識別し、詭弁的論法を論駁する能力を持ち合わせていなかったからです。実に、かくも多くの、かくも甚だしい誤謬を含んだ彼らの体系全体は、信仰と誤った哲学との結合から生まれたものです。
=========引用終了==========
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らを憐れみ給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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しかしこれはウソです。
何故なら、四聖福音書は歴史的事実が書かれている歴史書であるからです。
何故なら、マテオの聖福音書については、すでに近代主義の誤謬に対して、1911年に聖書委員会が次のように解答しているからです。
【質問6】:第1の福音書の著者の目的は、ユダヤ人たちにイエズスが預言者たちによって予告され、ダビドの家系から生れたメシアであることを証明するための特に教理的で護教的な目的であった、そしてまた、叙述し言及する事実と言われたことの配列においては、常に年代順になっているわけではなく、従って、この福音書を真実のものとして受入れるべきではないと結論される。これについては?
或いは、この福音書において読まれるキリストの行ったこと、話したことの記録は、旧約聖書の予言と発展した教会の現状による影響を受けて、ある程度変更されたり改作されたりし、そしてそのために歴史的真実とかけはなれている、これはどうなのか?
【解答】二つの部分とも否定する。
【質問7】:キリストの系図と幼少時代を書き記しているはじめの2章の歴史的真実性(historica authenticitas)を疑い、教義上重要な箇所、たとえばペトロの首位権に関するところ(16:17-19)、使徒たちに与えられた洗礼の形式と全世界に福音を伝える使命についてのところ(28:19, 20)、使徒たちがキリストの天主性を信仰宣言するところ(14:33)、その他のマテオだけにある特別の箇所の歴史的真実性を疑う者の意見を、特にしっかりとした根拠に欠くものであると考えるべきか。
【解答】肯定する。
また、ルカの聖福音書については、すでに近代主義の誤謬に対して、1912年に聖書委員会が次のように解答しているからです。
【質問9】:マルコがペトロの説教に従って、正確にそしてほとんど絵に描くように書き、ルカが「はじめからの目撃者で、みことばの奉仕者となった」十分に信頼できる証人を通して「すべてのことをはじめから詳しく調べた」(ルカ1:2以下)上で、きわめて誠実に表現した、(私たちの主の)言葉や行いは、教会がそれらの福音書に常に与えている歴史的信憑性を充分に持っていると言えるか。
反対に、同じ(私たちの主の)言葉や行いは、少なくとも一部分は歴史的真実性がないと考えなければならないか。
それは、或いは、著者が目撃者でもなことから、
或いは、2人の福音記者に事件の経緯の順序がないことや相違があるのはほとんどまれではないことから、
或いは彼らは年月が経ってからやって来て書いたため、キリストや使徒たちの考えと違う概念やすでに民衆の想像によって多少ゆがめられたことを書いたのは当然でことから、
或いは、最後に、前もって持っていた教義的概念によって、それぞれ自分の目的に合わせて書いたことから、である。
【解答】第1部については肯定する、第2部については否定する。
彼の「手作りの考え方」は明らかに異端です。
何故なら、彼はこう言って言うからです。「この話しをきれいごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。・・・ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかといわれていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。」
何故なら、聖母マリア様については、天主の聖母、終生童貞であることがカトリックの信仰であるからです。
何故なら、イザヤの預言にあるとおり「童貞女が身ごもって子供を産む」これが本当のメシアのしるしとして与えられたからです。もしも、聖母マリアが童貞ではなく、性的虐待の被害者であったとしたら(主よ!このようなことを言う我らを憐れみ給え!)、もはやイエズス・キリストはメシアではなくなるからです。
聖ピオ十世は、近代主義を排斥する「パッシェンディ」の中で次のように近代主義を描写しています。 まさにこの描写は、この「手作りの考え方」そのままです。
聖書
22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。
しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在と生命的永在によってのみ、そうされるのです。
それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する ───例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める─── 近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として ───もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが─── 見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです。・・・
カトリックの教えと矛盾する近代主義
真理の単純さ
尊敬する兄弟たちよ、一つの、ただ一つの真理のみ存在すると信じ、また聖書が「聖霊の霊感を受けて書かれ、天主をその著者とする」と信じる私たちは、このような教説は天主ご自身が便宜上の嘘をつかれた、と言うことに等しいと断言します。そして、聖アウグスチヌスと共に、こう述べるのです。「かくも崇高な権威において、ただ一つでも便宜上の嘘[の存在]を認めるならば、一見実践あるいは信じることが困難に見える命題の中で、その同じこの上なく有害な原則に基づいて、その書の著者が故意に、ある目的のためについた嘘であると説明しおおせない、ただ一つの文もなくなるでしょう。」そして、このようにして、この聖なる博士が続けて述べているような事態が生じるのです。つまり、「誰もが自分の好む、好まないに応じて、これらの文章───すなわち聖典───に記されていることを信じ、あるいは信じるのを拒むようになる」のです。しかし、近代主義者たちは自分たちの定めた方向に邁進してゆきます。彼らはまた「ある特定の教理の証明として持ち出されるある種の議論、例えば預言に基づいた議論は、何らの理知的根拠も有していない」と認めます。しかるに、彼らはこれらさえ宣教のための術策であり、生命[の必要]によって正当化され得るものだとして擁護するのです。それのみならず、彼らは「キリストご自身さえもが天主の御国の到来の時期について明らかな間違いをおかされた」ということを認める、否、声を大にして主張するのです。そして彼らの言うには、これについて驚くにはあたりません。なぜなら、[彼らによれば]「キリストご自身も生命の法則に服されていた」のですから!こうなれば、教会の諸々の教義は一体どうなってしまうでしょうか。近代主義者たちに言わせれば、「これらの教義は甚だしい矛盾に満ちています。しかし、それに何の問題があるでしょうか。なぜなら、生命の論理がそれらを認め、受け容れているという事実はさておき、それらの教義は象徴的真理にそぐわぬものではないからです。問題となっているのは無限なるものであり、しかるに無限なるものは無限に多様な側面をもっているのではないでしょうか。」つまるところ、こうした諸説を主張し、弁護するために、彼らは、「無限なるものに対して捧げることのできる最も気高い礼賛は、互いに相矛盾する命題をこの存在に帰することである」、と憚(はばか)ることなく宣言するのです。しかし、もし彼らが矛盾さえも正当化するのなら、彼らが正当化するのを拒むようなものが、一体何かあるでしょうか。
主観的議論
37.しかるに、[近代主義に従えば]不信仰者をして信仰を受け入れるよう導くのは、客観的議論によってだけではありません。主観的な議論もまた存在するのであり、このために近代主義の護教論者は内在という教説にその根拠を求めます。彼らは事実、自分たちが関わる当の不信仰者が、自らの本性ならびに生命の奥深いところに、何かある宗教、それもただどんな宗教でもよいのではなく、カトリック教の名で知られている特定の宗教に対する必要および欲求が隠れていることを納得させようと努めます。「この宗教こそが生命の完全な発達のために絶対必要なものとして要請される宗教だから」です。ここでもまた私は、内在を教説としては否定しながら、それを護教論の手法として用いるカトリック者がいることに不服の念を表わす充分な理由をもっています。実際、こうした人々はあまりに賢明さを欠いた仕方でそうするので、カトリックの護教家たちによって常に、しかるべき限度をまもって強調されてきたように、人間には超自然的事柄に対する受容能力ならびに適合性がある、と認めるに止まらず、「人間本性には超自然的次元に対する真の、厳密な意味での必要がある」と認めさえするように見受けられるほどです。実のところ、カトリック宗教に対するこのような[人間本性の根元からの]切迫した必要という論拠を用いるのは、まだ穏健な方の近代主義者たちです。その他の徹頭徹尾のとでもいうべき近代主義者は、不信仰者に、彼の存在の内に、キリストご自身がその意識の中に持っておられ、人類に伝達されたのとまさに同一の芽生えが潜んでいる、ということを示そうとします。尊敬する兄弟たちよ、以上が近代主義たちの用いる、彼らの教説と完全に調和した護教論の手法の概略的な説明です。こういった誤謬にあふれた手法ならびに教説は、建設のためではなく破壊のためのもの、また、カトリック信者をつくるためではなく、すでにカトリック信者である人を異端へと誘い入れるためのものであり、宗教全体の完全な転覆へと導く種類のものです。
近代主義の中に居を構える傲慢
しかるに、霊魂の上に[好奇心よりも]比較にならないほど大きな影響力を及ぼしてそれを盲目にし、誤謬へと導くのは傲慢です。そして傲慢は近代主義の中に、それが自分の住居であるかのようにあぐらをかきます。傲慢は、近代主義の教えのいたるところに自らを養うものを見出し、そのあらゆる側面に潜みます。実際、近代主義者をして、自分たちが万事の基準[を定める者]であると見なし、かつそのように振る舞うほどに自信で満たすのは、この傲慢です。彼らを虚しい傲りで満たし、知識の唯一の保持者を自認させるのも、また、得心し、僭越心にふくれ上がって「我々は他の者たちとは違う」と言わせるのも、さらに、自分たちが他の人々と同じように見えることのないよう、最も愚昧な新説さえをも採り入れ、また自ら考案するよう導くのも傲慢です。さらに、彼らの心中に不従順の精神をかき立て、権威と自由との間に歩み寄りを要求させるのもまた傲慢です。傲慢のゆえにこそ、彼らは自らを改めることを忘れて他の者たちを矯め直す者となることを欲し、また、権威に対する敬意に、───最高の権威に対してさえも─── 甚だしく欠くようになるのです。まことに傲慢ほど近代主義へと直接に、また速やかに導くものはありません。もしカトリックの一般信徒もしくは司祭が、キリストに従うために己れを捨てるよう強いるキリスト教生活の戒律を忘れてしまい、傲慢を自らの心から引きはがすのを怠るならば、彼は他の誰にもまして近代主義の誤謬の格好の標的となります。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、このように傲慢の餌食となった者たちに対抗し、彼らを最も低い、目立たない役職にのみ用いることがあなた方の第一の義務となります。彼らが高い所に上ろうとすればするほど、それだけいっそう彼らを低い位置に置かなければなりません。それは彼らの地位の低さのゆえに、彼らの及ぼす害悪が制限されるためです。あなた方のもとにある若い聖職者らをあなた方自身で、また神学校の校長を通し、きわめて入念に審査しなさい。もし傲慢の精神を彼らの中に見出したならば、呵責なく彼らに司祭職の道を閉ざしなさい。倦むことのない用心深い警戒によって、今日に至るまでずっとこのことが為されていたならば、どれほどよかったでしょう。
近代主義者たちの無知
41.近代主義の道徳的原因から知的原因へと視点を移すならば、第一の主要な原因として、無知が見出されます。そうです、教会の教師として目されることを望む近代主義者たち、現代哲学をかくも称揚し、スコラ哲学に対してあれほどの軽蔑を表す当の彼らが前者をその全ての偽りの魅力と共に受け容れたのは、まさに後者についての無知のために、彼らは思考の混乱を識別し、詭弁的論法を論駁する能力を持ち合わせていなかったからです。実に、かくも多くの、かくも甚だしい誤謬を含んだ彼らの体系全体は、信仰と誤った哲学との結合から生まれたものです。
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らを憐れみ給え!
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